李牧と辺境の胡

文字数 1,764文字

 趙王は李牧を将とし、燕を伐ち、武遂、方城を取りました。

 李牧とは、趙の北辺の良將でした。かつて代、雁門に居り、匈奴に備えていました。便宜にしたがって吏を置き、市租はみな幕府に輸入し、士卒の費用とし、日々何匹かの牛を撃って士卒を饗応し、騎射を習わせました。

 北方では、荒野へ出ると定まった場所(陣地)はなく、おる所に幕を張ってそこに住まいします。将帥の居るところは府と称したことから、これを幕府と呼ぶことになったといいます。(胡注に引く)

 李牧は烽火(のろし)をひかえ、間諜を多くしました。

 そして紀律(約)をつくって周知しました。

「匈奴がただちに入盜すれば、急いで入って畜産を收めて保て。あえて虜(匈奴)を捕らえる者あらば斬る!」

 匈奴が入るごとに、烽火を謹み、そのたびごとに家畜を入れ、收め保ちて戦いませんでした。このようなことが数歲になりましたが、趙に()げるもの失うものはありませんでした。匈奴はみな李牧は怯えているとおもい、趙の辺兵といえどもまた自分たちの将は怯えているとおもいました。

 趙王は李牧を()めました、しかし李牧は(もと)のままでした。

 王は怒り,他の人間をして李牧に代えさせました。歲余(すうねん)にして,しばしば出戦し、利あらず、多くの民や財産を失い()くさせ,辺境は田畜の収穫を得ませんでした。

 王は再び李牧の出仕を請いました。李牧は門をふさぎ病を称して出てきませんでした。王は強いて李牧を起用しました。

 李牧は申しました。

「必ず臣を用いようとされるなら、前のとおりにされたい、そうすればあえて令を奉ぜん。」

 王はそれを許されました。

 李牧は辺境に到達すると、前約のとおりにしました。匈奴は数歲得るものがありませんでした。匈奴は()いに(また)李牧は怯えているとおもいました。

 辺境の士卒は日々賞賜を得ているのに用いられず、みな一戦を願いました。

 ここにそこで(つぶ)さに車を選んで千三百乘を得、騎を選んで萬三千匹を得ました。百金の士(善く相手を捕らえ、大将を倒すと百金を賞賜されたということからいう)が五萬人、彀者(彀とは手持ちの弓でよく射る者のことをここでは指す)が十萬人でした。ことごとく馬を勒して戦いに習熟していました。

 ここに大いに畜牧を(ほしいまま)にし、人民は野に満ちました。

 匈奴が小しく入ると、(いつわ)りて()げ、勝ちませんでした。数十人を匈奴に棄て(捕虜にさせ)ました。

 単于(ぜんう)(匈奴の首領)がこれを聞き、大いに衆を率いて来入しました。李牧は多く奇陳(きじん)をつくり、左、右の翼を張りめぐらして匈奴の軍を擊ち、大いに破り、匈奴十余万騎を殺しました。襜襤(たんらん)(『漢書』は「澹林(たんりん)」につくるという、胡の一種族だという)を滅ぼしました。東胡を破り(後の鮮卑、烏丸)、林胡を降しました。単于は奔走し(逃げ出し)、十余歲はあえて趙の辺境に近づきませんでした。

 先是(これまでに)、天下に冠帯する国(王を称する国か)が七つ現れましたが、そのうち三国が戎狄と辺境を接していました。

 秦は隴より以西に綿諸、緄戎、翟、豲の戎がおりました。岐、梁、涇、漆の北に義渠、大荔、烏氏、朐衍の戎がおりました

 また趙の北には林胡、樓煩の戎がおり、燕の北には東胡、山戎がおりました。

 それぞれ分散して溪谷に住居し、それぞれ君長がおりました。往往にして(あつま)るもの百有余戎、そうではあるもののそれらを能く一つにするものはおりませんでした。

 その後、義渠は城郭を築いて自ら守るようになり、秦は徐々にそれを蠶食し、惠王に至って遂に義渠の二十五城を抜きました。昭王の時には,宣太后が義渠王を誘って、それを甘泉に殺し、遂に兵を発して義渠を伐ち、それを滅ぼして、はじめて隴西、北地、上郡の行政組織を置き、長城を築いてそして胡を防ぎました。

 趙の武靈王は北に林胡、樓煩を破り、長城を築き、代ならびに陰山のふもとから、高闕に至るまでを城塞化しました。そして雲中,雁門,代郡の行政組織を置きました。

 その後に燕将の秦開が胡に人質となりました。胡は甚だ秦開を信じました。秦開を歸しましたので、燕は秦開により東胡を撃破し、東胡は千余里を退きました。そして燕もまた長城を築き、造陽より襄平に至りました。そして上谷、漁陽、右北平、遼東郡の行政組織を置き、そして胡を防ぎました。

 戦国の末になって匈奴の勢力が始めて大きくなってきました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み