楽毅、齊を進む
文字数 1,526文字
樂毅は晝の邑の人、王蠋が賢人であることを聞き、軍中に命令して晝邑を囲むこと三十里で入らせないようにしました。そして人をつかわして王蠋を求めましたが、王蠋は丁寧に断りを入れて行きませんでした。燕人はイラついたのかこういいました。
「来なければ、我々は晝邑を皆殺しにしてやるぞ」と。
王蠋は答えました。
「忠臣は二君に仕えず、烈女は二人の夫に見えないものでございます。国が侵略され、主君が亡くなられれば、我々は生きていくことはできません、さらに我々を従わせるのに武器をもってされる。そのようなことであっては、私はその不義によって生きるよりは,死んだほうがましに思います」
そしてその頸を樹の枝にかけ、体を投げ出して首をつり、自殺しました。
いたましい話だと思います。これは齊にも心ある人がいた、として載せられているようです。
燕の軍隊は勝利に勢いづいて長駆して攻め込み、齊の城はみな形勢を観望して壊滅しました。樂毅は燕軍を厳格に規律し、侵入・略奪を禁止し、齊の戦乱を免れている賢人(逸民)を求めました。そして彼らを顕彰したうえで礼遇し、税や賦役をゆるめて、齊の暴虐な法令を取り除き、かつての穏やかな政治に戻しました。齊の民はおおいに喜びました。
そこで左軍を派遣して膠東、東萊へと進攻しました。前軍は泰山にそって東へ進んで海に至り、琅邪を攻略しました。右軍は黄河、濟水にそって進んで阿、鄄の街に駐屯し、魏の軍と連携しました。後軍は北海のほとりを進んで千乘の街を従えました。中軍は臨淄に拠点を置いて齊都を鎮め、桓公、管仲を街の郊外に祀って、賢者のいる閭(区域)を表彰し、王蠋の墓を立派にしました。(王蠋の墓はおそらく晝邑にあったと考えられます〕
齊人のうち邑を燕から食む者が二十余君にのぼり、爵位を燕の本国の首都・薊に得たものも百人を超えるほどになりました。
六カ月の間に齊の七十城あまりを下し、すべて燕の郡や縣としたのです。
このころ、秦王、魏王、韓王が京師に会盟しています。
周の赧王の三十二年(B.C.283)
秦と趙が穰に会盟しました。秦は魏の安城を抜き、秦の軍は大梁にまで到達して還りました。
齊の淖齒の乱において、湣王の子の法章は姓や名を変えて莒の太史・敫の家の雇人になっていました。太史の敫の娘が法章の身振りや容貌を優れていると怪しみ、非常に立派な人物と思って、憐れんではいつも衣をこっそりと与え食事も立派なものにさせたため、それによって情が通じることになりました。王孫賈は湣王に従っていましたが,王の居所を一時失いました。王孫賈の母は申しました。
「おまえが朝に出て晚にもどってくれば、私は我が家の門のそばで出迎えましょう。おまえが暮に出て帰って来なければ、私は里の門まで外へ出て帰りを待ちましょう。おまえは今王にお仕えし、王は逃げておられる、そうであるのにおまえはそのおられる場所を知らないでいる、お前はいつごろ帰ってこられるんだい」
王孫賈はそこで街の市場にて叫んで言いました。
「淖齒が齊の国を乱し、湣王は弑逆の手にかかった、私とここにこれに報いんとする者は右肩をはだぬぎになれ!」
そして市場の人間、四百人を率いて淖齒を攻め、報復し、殺しました。ここから齊の逃げていた家臣はみな互いに湣王の王子を探し、擁立しようとしました。法章は擁立の争いを畏れ、自分の素性を伏せていましたが、遂に立って齊王となりました,莒城に拠って燕を防ぎ、国中に布告して噂を広めました。
「王はすでに擁立されて莒におられるぞ!」と。
そして応援を待つことにしたのです。
楽毅は臨淄により、法章は莒によりました。そして齊を救うべく、田單の活躍が始まることになります。
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