秦の獻公の時代

文字数 1,188文字

 もう少し秦と魏の関係を見てみたいと思います。秦と魏が、どのような関係にあったか、他国のことも交えながら見てみましょう。

 秦が『資治通鑑(しじつがん)』に登場してくるのは、周の安王の時代です。

 周の安王の元年(B.C.401)に、秦が魏の都・安邑(あんゆう)を越えて、深く東の陽孤(ようこ)という土地まで攻め込んできた、という記述が残っています。魏はまだ文侯の時代です。

 次いで安王の十一年(B.C.391)に、魏を攻めて十年たってから、韓の宜陽(ぎよう)という都市を攻め、六邑を取った、そういう記録が残っています。この頃から秦の西への意欲が盛んになります。

 秦は、(しゅう)・安王の十二年(B.C.390)、十三年(B.C.389)と(しん)と戦っていますが成果は上がっていません。しかし、十五年(B.C.387)には蜀の国を攻め、漢中の南鄭(なんてい)を手中に収めています。

 しかしこれらの戦争への不満が高まっていたのでしょうか、十七年(B.C.385)にクーデターが起こります。秦で庶長の位にあったものが、孝公の父、獻公(けんこう)を黄河の西の地域から迎えて、当時公の位についていた出子(しゅつし)とその母を殺し、遺体を川に沈めてしまったのです。

 獻公は即位して二年目に櫟陽(れきよう)に遷都しました。

 『史記(しき)』には、この際に秦は、晉の国に河西の地(黄河の屈曲以西の地)を奪い取られたと書かれています。

 獻公はしばらく西への意欲を抑え、内政に勤めます。その間(安王の二十六年(B.C.376))に、安王がなくなったどさくさにまぎれて、晉の土地を魏、韓、趙が奪い、分けてぶんどりました。

 そして周・烈王の時代(元年(B.C.375)から七年(B.C.369))を(はさ)み、周の顯王(けんおう)の三年(B.C.366)になって、秦は東へ魏との戦いに赴きます。獻公が即位してから19年の歳月が流れていました。

 秦は強かったです。

 これまでの間に、武侯の治世、魏は他の三晉(さんしん)の国や、(せい)や楚などと戦いを繰り広げて、その強さを示していました。しかし、その魏を秦は押し込みます。

 顯王の三年(B.C.366)、秦は魏の軍と、韓の軍を洛陽に破りました。ここでは、秦が魏・韓に優勢であったと書かれています。 なおこの時点ですでに、魏は恵王(けいおう)に代替わりしていました。

 顯王の五年(B.C.364)には、秦の獻公は三晉(魏・韓・趙)の軍を石門(せきもん)というところで破り、六万の兵の首を取った、とあります。秦の強さに驚いた周王は黼黻(ほふつ)の服(斧などの文様の入った服)を贈りました。これは周が秦に名誉を与え、その地位を認めたことを示しています。

 秦の、ひいては獻公の強さは続くかと思われ、顯王の七年(B.C.362)には魏と少梁(しょうりょう)に闘って、さんざんに魏の軍を打ち破り、その将の公孫痤(こうそんざ)(公叔座(こうしゅくざ)とは別人か?)を捕らえましたが、その年に、河西回復の望みを果たさぬまま、獻公は亡くなりました。

 その獻公の志を継ぎ、孝公は秦の強国化を進めたのです。
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