秦よ、秦よ、その汚名あまりに甚だしきか

文字数 972文字

 ()ず何よりも大切なのは、一文を落とさないでくれ、そう()べた個所(かしょ)が重要です。もう一度振り返ってみましょう。

 もう賢明(けんめい)なあなたは、お気づきですか?

()王・懷王(かいおう)の子、(らん)が王に行くことを(すす)め、王はそこで(しん)の国に入国した。」

 これが私が指摘しておいた文です。つまり(しん)が楚王を呼んだように見えますが、実は本当に楚の懷王に秦に行かせたのはこの人物、懷王の息子、おそらく庶子(しょし)であった蘭という人物だったのです。

 史実(しじつ)では、秦が懷王を幽閉(ゆうへい)し、手ひどい扱いをしたことになっています。そうとらえられている。

 しかしみなさん、武田信玄(たけだしんげん)をご存知ですか?では、信玄が、父信虎(のぶとら)駿河(するが)の国に追いやった手法をご存知の方は、何人おられるでしょうか?

 中国でも春秋時代(しゅんじゅうじだい)から、子が父を外交のために他国に出国させ、その後、帰途(きと)(ふさ)いで国を乗っ取ってしまった例はまま現れます。

 ここでは蘭が懷王を秦に行かせ、その帰途を塞いで、自らが王になろうとした、そういう背景が読み取れないでしょうか。

 よく読んでみると後のほうに、楚の重臣たちは

を立てようとした。という記録が出てきます。そしてそれに敢然(かんぜん)と立ち向かい、太子を(ほう)じようと戦った昭睢(しょうすい)という家臣も出てきます。

 つまりこの事件は、楚の国における、太子派((せい)国派)と、庶子・蘭派(秦国派)が権力・跡継(あとつ)ぎをめぐって争った、政争(せいそう)としてとらえると、全く違う様相(ようそう)(しめ)してきます。そして秦が一手に悪評(あくひょう)をかぶってしまった、立ち回りのまずさも見えてくるのではないでしょうか。

 ちなみに、中国の四書五経(ししょごきょう)の一つ春秋(しゅんじゅう)左氏伝(さしでん)には、秦の穆公(ぼくこう)が、(しん)惠公(けいこう)を戦争の捕虜として自国へ引き連れて帰ったものの、後に国に返してやった故事(こじ)が出てきます。この惠公との政争に打ち勝って登場してくるのが、有名な晉の文公(ぶんこう)で、文公は春秋の五覇(ごは)の一にも数えられますので、これは中国人にとっては有名なエピソードだと思います。

 秦の昭襄王(しょうじょうおう)はまだ若く、宣太后(せんたいこう)摂政(せっせい)?しています。この穆公(ぼくこう)の故事を逆手(さかて)にとられて、悪名(あくめい)をかぶせられてしまった可能性はないでしょうか?

 そこまで書くと、秦びいきが過ぎるでしょうが、この事件が起こるまでの、秦と(ちかい)を結んだり、齊に太子を人質に送ったりして、ふらふらしていた楚の外交の軌跡(きせき)とともにこの事件を見てみると、また違った見方ができるのは事実だと思います。
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