遠交近攻と范睢

文字数 2,523文字

 范睢(はんすい)は申しました。

(あえ)(しか)るにあらざるなり!(あえてそうであるわけではないのでございます)

 臣は、羇旅(きりょ)の臣(外国出身の臣)でございます。(まじわ)りも王とは疎遠にございます。()べるのを願うところの者はみな君を(ただ)すの事ですが、人の骨肉の間(肉親の複雑な関係の中)におって、(わたし)(まごころ)をささげようとして、まだ王のお心を知らなかったのです。これこそ王が三たび問われた所以(りゆう)であって、臣があえて(こた)えなかった理由にございます。臣は知っております、今日、(ことば)(さき)()けば(過ぎれば)、明日には(ちゅう)に後に(ふく)すものでございます、そうではあるものの臣はあえて避けなかったのでございます。

 また死ともうすものは、人の必ず(まぬが)れることのできないものでございます(読者には、范睢が魏で一度死地(しち)をくぐっていることを想起(そうき)していただきたい)、かりそめにも臣の言葉で少しでも補うことが秦にあることができて死ねれば、これこそ臣の大いに願うところだったのでございます。

 ただに臣の死するの後を恐れるだけでなく、天下が口を(ふさ)ぎ足を裏にし、あえて秦に()(郷)かうことがないことを恐れるだけでございます。」

 計算された言葉なのか、それとも、范睢の心からの叫び、決死の言葉だったのかはわかりません。しかしその言葉は王をとらえました。

 王は(ひざまず)いてもうされました。

「先生、これは何というお言葉でございましょう!今、寡人(わたし)は先生におあいすることができました。これは天が寡人を、先生に汚辱(おじょく)された上で先王の宗廟(そうびょう)にあらしめんとしたのでございましょう。

 事の大小と無く、上は太后(たいこう)に及び、下は大臣(穰侯(じょうこう))に至ります。願わくば先生をして、ことごとくおっしゃりたいことを寡人にお教えください。寡人を疑われることのありませんように!」

 范睢は(はい)をしました、王もまた拜をしました。

 范睢は申しました。

「秦国は大国であり、士卒(しそつ)は勇敢でありますので、それをもって諸侯を治めれば、(たと)えるならば、韓の()(犬、名犬として知られる)を走らせて(くる)しむ兔を()らえるようなものにございます。

 そうであるのに関を閉じること十五年、あえて兵を山東に(うかが)わない理由は、これは穰侯が秦にとって不忠を(はか)り、そして大王の計略もまた失っているところがあるのでございます。」

 王は(ひざまづ)かれ申されました。

「寡人は願わくば計略の(とう)を失ったところを聞きたい!」

 そうではあるものの左右(さゆう)には多く(ひそ)かに聴く者がおりました。范睢はいまだあえて内の事(太后、穰侯の治世)を言わず、先に外の事を言い、そして王が()(あお)がれるのを観ました。そして進みて申しました。

「お考えください、穰侯は韓、魏を越えて齊の(ごう)(じゅ)を攻めましたが、妥当(だとう)な計ではございません。

 齊の湣王(びんおう)は南に楚を攻め、軍を(やぶ)り将を殺しました。そして再び地を(ひら)くこと千里、そうではあるのに齊は尺寸(しゃくすん)の地も得ることがなかったのでございます、どうして地を得ようと望まなかったのか?形勢が地を所有することを許さなかったのです。諸侯は齊の罷敝(ひへい)疲弊(ひへい)の音通・疲弊と音が同じ、か?)を見て、兵を起こして齊を伐ち、大いにこれを破ったので、齊は滅亡に(ひん)しました。それは楚を伐ったことが韓、魏を()やしたからでございます。

 今、王は遠きと交って近くを攻めるにこしたことはございません。寸を得れば王の寸の地であり,尺の地を得ればまた王の尺の地でございます。

 今考えてみますに、韓、魏は,国の中心のところでありまして、天下の(すう)でございます。(門の戸でここは(たと)えを取っている、門の戶の()じる()らくはみな(とぼそ)による。)王が若し霸となろうと望まれるならば、必ず国の中心の国々(中国)に親しまれて天下の樞(起点・足がかり)となされ、そしてそれらで楚、趙を(おど)すのです。楚が強ければ趙と同盟し、趙が強ければ楚と同盟する、楚、趙どちらとも同盟できれば、齊は必ず(おそ)れるでしょう、齊と同盟できれば、韓、魏はそれによって(とりこ)とすることができるでしょう。」

 王は申されました。

(すばらしい)。」

 そして范睢を客卿(かくけい)とし、いっしょに兵の事を(はか)られたのです。ここに范睢が主導して、秦の政治が動いていくきっかけが起こったのです。

 しかし何点か、ささやかな指摘を残しておきたいと思います。

 いちばん最初に、私は「話は遡ります」というような前置きを置きました。「初」というのは、時間を遡る、という意味の単語だったはずだからです。しかし、私にはどれほどの時間をこの時点から、この物語が遡ったのか、比定(ひてい)できないでいます。

 文中にて、「穰侯は韓、魏を越えて齊の剛、壽を攻めました」というくだりがあります。その点から、『通鑑』の作者はこの話をここに置いたようにも感じます。しかし、一方で関を閉じて十五年が経った、という話が出ています。これは白起たちの活躍と全く齟齬(そご)をきたしています。

 以前に楚の黃歇(こうけつ)が楚のために秦で弁舌を振るった話をしましたが、そこでの歴史の事実の認識に(あやま)りがあることを述べました。この時代の文化事情、歴史記録の保存の状況を想像してください。この当時は木簡が主流の時代、歴史記録は各国の朝廷に保管され、めったなことでは目に触れることができなかったと考えられます。黃歇にせよ、范睢にせよ、文字を知り、これだけの各国の状況を、知っている方が尋常(じんじょう)ではなかったのです。

 新聞も雑誌もない時代です。そのような時代に、各人物の情報を収集し、その配置や意図を自らの頭脳で分析する。そのうえで立体的に策を練り、実行する。この当時の人物として、范睢という人物が天才的な才能を持っていたことが推測されます。

 確かに范睢が述べている事実のうち、「穰侯は韓、魏を越えて齊の剛、壽を攻めました」という事実が最も新しく、この議論はそれ以降のものかもしれません。しかしその述べた内容(太后、穰侯の非難も含めて)や、有名な遠交近攻(えんこうきんこう)という献策(けんさく)内容の実際の実施具合については、「話として述べられたこと」と、「実際に起こったこと」を、丁寧に比較考証する必要があるのではないか、そう私は考えます。

 ともかく、范睢という人物は、不思議な才能を持ち、面白い人物であるように感じます。

 多少、話が()れすぎたようです、さて、続きを見てみましょう。
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