長平の戦い (周・赧王 五十六年)
文字数 1,168文字
周の赧王 の五十六年(B.C.259)になりました。
十月、武安君 ・白起 は軍を分けて三部隊としました。
王齕 は趙の武安 、皮牢 を攻め、これらを抜きました。
司馬梗 は北の太原 を定めました、そしてことごとく上黨 の地を支配下におさめました。
韓、魏は恐怖しました、蘇代 を派遣して幣 を厚く準備し、應侯 に説いて申させました。
「武安君はすぐさま邯鄲 を囲むであろうか?」
應侯・范雎 はこたえました。
「然 。」
蘇代は申しました。
「趙が亡びれば秦王は天下の王となられるだろう。武安君は三公となるだろうが、君はよくその下になれるだろうか?その下になることなからんと欲するとしても、もとよりどうすることもできないのだ。秦はかつて韓を攻め、邢丘 を囲み、上黨を苦しめ、上黨の民はみなそむいて趙となった。天下のものが秦の民となることをこいねがわないことは日、久しい。
今、趙を亡ぼし、北の地を燕に入れ、東の地を齊に入れ、南の地を韓,魏に入れれば、そうすれば君の得られる民は幾何 の人数もない。だからこれらの地を割いて、そして武安君の功としないにこしたことないのだ。」
そこで應侯は秦王に申しました。
「秦の兵は労 ております、請いますには韓、趙の地を割きてそれで講和し、かつ士卒を休めんことを。」
王はこの意見を聴かれ、韓の垣雍 、趙の六城を割きてそれで講和しました。正月、すべての兵を罷 めました。武安君はこれによって應侯と隙 (不仲)があることになりました。
ただ、ここの個所には、「これを観るに、また十月を用 (以)って歲首と為す、蓋 し秦記 に因りてこれを書すなり。」という胡三省の注が付けられています。十月を歳首(十月一日を元旦、年の初め)とするか、十一月を歳首とするか、十二月を歳首とするか、夏、殷、周によって正月の元旦が異なるといわれます。
つまり、暦が違ったわけです。
暦が違うということは、月ごとに行う行事が異なり、また農時を行う日付も異なることになります。当時の人にとって、暦は大切なものだったのですが、秦と、他の国と、暦が違った可能性がここでは指摘されています。
先に述べたように、時間がここのあたりでは錯綜している印象があります。一年ほどのずれがあった可能性がある、そう私は考えていますが間違いでしょうか。
そうなると、秦軍は、長平での戦いの余勢を駆って、こののち蘇代の質問に出た邯鄲の包囲戦に入ったことになります。軍事作戦としては、どうだったのでしょう?一旦兵站を補給するために秦へ戻ったのでしょうか、ここでは記載のとおりに秦へ軍は戻ったものととらえますが、長平の戦いと、邯鄲の包囲戦とは連続したもの、そうではなくても、弱った趙にたたみかけた、秦の作戦であったのではないかと私はとらえています。これについては後の記載を読んで、判断していただければと思います。
十月、
韓、魏は恐怖しました、
「武安君はすぐさま
應侯・
「
蘇代は申しました。
「趙が亡びれば秦王は天下の王となられるだろう。武安君は三公となるだろうが、君はよくその下になれるだろうか?その下になることなからんと欲するとしても、もとよりどうすることもできないのだ。秦はかつて韓を攻め、
今、趙を亡ぼし、北の地を燕に入れ、東の地を齊に入れ、南の地を韓,魏に入れれば、そうすれば君の得られる民は
そこで應侯は秦王に申しました。
「秦の兵は
王はこの意見を聴かれ、韓の
ただ、ここの個所には、「これを観るに、また十月を
つまり、暦が違ったわけです。
暦が違うということは、月ごとに行う行事が異なり、また農時を行う日付も異なることになります。当時の人にとって、暦は大切なものだったのですが、秦と、他の国と、暦が違った可能性がここでは指摘されています。
先に述べたように、時間がここのあたりでは錯綜している印象があります。一年ほどのずれがあった可能性がある、そう私は考えていますが間違いでしょうか。
そうなると、秦軍は、長平での戦いの余勢を駆って、こののち蘇代の質問に出た邯鄲の包囲戦に入ったことになります。軍事作戦としては、どうだったのでしょう?一旦兵站を補給するために秦へ戻ったのでしょうか、ここでは記載のとおりに秦へ軍は戻ったものととらえますが、長平の戦いと、邯鄲の包囲戦とは連続したもの、そうではなくても、弱った趙にたたみかけた、秦の作戦であったのではないかと私はとらえています。これについては後の記載を読んで、判断していただければと思います。