2回目の商鞅の変法(改革) 

文字数 1,553文字

 周の顯王(けんおう)の十九年(B.C.350)の前後、秦は衛鞅(えいおう)の策により大きな改革に乗り出します。内容は多岐(たき)にわたりますが、私は素人です。それぞれ歴史書にある通りに、ここでは紹介させていただきます。

 まず第一にあげられるのは、咸陽(かんよう)遷都(せんと)したということです。

 古代中国では、山の南にあるものを陽、水の北にあるものも陽と呼びます。(逆に山の北にあるものは陰、水の南にあるものは陰です。我が山陰、山陽の由来もここからきています)

 由来(ゆらい)(くわ)しくは知りませんが、ともかくそのような風習があるのですが、咸陽は山の南、水の北にあり、どちらも陽であることから、咸陽、『()(よう)』という名が付いたようです。

 咸陽は、もともとは、(いん)紂王(ちゅうおう)を倒した武王(ぶおう)の祖父にあたる、王季(おうき)、という人が拠点としていた土地でしたが、そこに衛鞅は宮廷を開き、都としたようです。

 宮とは周りを囲む建物のこととされます。廷とは、王の(のぞ)む朝廷という機能それ自体を指し、平均(へいきん)正直(しょうちょく)な機関が置かれることを指すとしています。

 これが、一つ目。

 次に実施されたのが、(しゃく)制のような秩序を、家庭内にまで広げることです。

 衛鞅は、父と子、兄と弟が同じ部屋で休んでいた風習を禁止しました。はっきりと主権を誰が握っているか、明らかにしたわけです。

 当時の秦の風習では、男女や、長幼(ちょうよう)(老人と若者)の区別((じょ))が家庭内で設けられていませんでした。フラットかつあいまい、混じり合った状態だったわけです。それを衛鞅は序列(じょれつ)が付くようにしました。

 中国では、というか、儒教(じゅきょう)では『()』というものを重視します。父の分、子の分、兄の分、弟の分、それぞれの立場をはっきりさせることで、秩序がおさまりやすくしたわけです。

 これが、二つ目。

 三つ目が、いろいろな小さな(きょう)(しゅう)と呼ばれた集落を、集めるというか、統治(とうち)の基準を設け、(けん)(県)という単位にまとめました。そして縣にはそれぞれ(れい)(じょう)などの長官を置いてその範囲を治めさせました。その数、およそ三十一縣。

 この縣を置いたことで、秦の統治機構は一層しっかりしたものになりました。家庭では父子や兄弟の秩序、国では法と(しゃく)の秩序、統治機構としては縣の秩序(のち郡も出てくると思います)と、三つの区分の秩序により、国を治めるようにしました。

 組織がしっかりしました。

 これが、三つ目。

 四つ目が、井田(せいでん)法を廃し、阡陌(せんぱく)の制度を開いたこと。

 これは難しい問題で、学者により解釈が違うと思うので、今は触れません。ともかく、土地の利用の制度を変えた、と述べるにとどめます。

 これが、四つ目。

 五つ目が、単位を整えたこと。

 斗、()?、(けん)(こう)(じょう)(しゃく)などの単位の基準を設け、それを普及させました。一定公平な基準ができたことで、共通の流通や文化の基礎ができたことになると思います。

 当時の売買の単位が貝貨(ばいか)(貝のお金)だったのか、銅貨や金属などのお金だったのか知りませんが、もし物々交換が依然として有効な流通手段だったなら、基準が統一されることは、交換されるものの基準ができたことになり、便利なことだったと思われます。

 また貝貨や銅貨の重さや、大きさが基準となっていたのならば、それらの基準を統一することは、その国内における商業の交換手段を著しく有効にしたのではないかと想像されます。

 これが五つ目。

 最後は、少し離れた、顯王(けんおう)の二十一年(B.C.348)ごろに賦税(ふぜい)の制度の改革が行われます。

 井田法((じゅう)の一税)から、土地を測っての課税へ税制が変化したとされます。

 この改革が、少し遅れて実施されたのは、国の実力の強化、統治機構の整備、土地制度の改革、基準の統一、がなされてはじめて、税の収入の向上が図れた、制度が変えられたと考えるべきでしょう。

 これが、改革のまとめにおそらくなりました。
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