人質の話

文字数 2,212文字

 周の赧王(なんおう)の五十年(B.C.二六五)はまだ続きます。

 齊の安平君、田單が趙の軍を率いて燕を伐ち、中陽を取りました。また韓を伐ち、注人を取りました。

 齊の襄王が薨じ、子の建が立ちました。建は年が(わか)く、国の事はみな君王の后に決せられることになりました。

 五十一年(B.C.二六四)

 秦の武安君が韓を伐ち、九城を抜き、斬首すること五萬にのぼりました。

 田單が趙の相となりました。

 五十二年(B.C.二六三)

 秦の武安君が韓を伐ち、南陽を取り、太行道を攻め、これを絕ちました。

 ここで指す韓の南陽とは、河內の地、野王というところだといわれます。『漢書』には、太行山が野王の西北にあるのだ、としています。(つまり太行山の東南に野王はあるわけです)

 ここでは五十二年のこととして出てきていますが、この野王の地を秦が取ったことが五十三年にも出てきており、長平の戦いの発端になっています。

 そもそも長平の戦いとは、秦が趙に長平で勝った戦いを指すのですが、私はそれ以前から、その後も続いた一連の戦いを意識して、「長平の戦い」と呼ぶことにします。その旨、ご承知いただければと思います。

 楚の頃襄王(けいじょうおう)(やまい)(へい)になりました(病とは危篤を指します)。黃歇(こうけつ)は應侯に説いて申しました

「今の楚王の疾が再起されないようになられること(崩御)を恐れます。秦は自らの預かる太子(太子完)を帰されるのにしくはありません。太子が立つことができれば、そうすれば秦につかえることは必ずますます重くなり、相国(應侯)を徳とすることは窮りないでしょう。これは与国に親しみて(もうけ)を万乗の君に得るということです。太子も帰れなければ、つまりは咸陽の街の単なる一布衣(一般人)にすぎません。

 楚が太子を()えて君を立てれば、きっと秦につかえないでしょう、これは与国を失って万乗の君との和を絶つことになります、これはよい計略ではございません」

 そこで應侯はそれを王に告げました。

 王は、おそらく諮ったうえでしょう、申されました。

「太子の(おもりやく)を先にいって疾を問わさせ、返ってきてからそののちこのことを図れ」

 黃歇は太子に(はかりごと)を授けて申しました。

「秦が太子を留めるのは、そうして利をもとめようと望むからでしょう。今、太子の力はまだ秦に利益を与えるようなものではありません。

 そうであるのに、陽文君の子息、二人が宮中にはおられます。王がもし大命を()えられれば、太子がいらっしゃらないなら、陽文君の子息が必ず立って後の王となられるでしょう。太子は宗廟を奉じ、王となられることはできません。

 太子様は秦から逃亡されるにしくはありません。使者とともに脱出なさってください。臣は請うらくは、(とど)まって、死をもってこの事態に当たりたいと思います!」

 太子はそこで変服(変装)して楚の使者の御者となり、関から秦を脱出しました。そして黃歇は留守邸を守り、いつも太子のために病(危篤)であると謝罪していました。

 黃歇は太子がすでに遠くへいかれたのを(はか)って、そして自ら王に言って申し上げました。

「楚の太子はすでにお帰りになられました。関を出て、遠くにおられます。歇に願くば死を賜らんことを!」

 王は怒られました。黃歇を聴聞(拷問か)しようとされました。

 應侯が申しました。

「歇は人の臣たる身分でございますが、身を投げ出してそしてその(あるじ)(したが)いました。太子が立てば、必ず歇をもちいるでしょう。無罪として帰すにこしたことはございません、そして楚と親しむのです。」

 王はそれに従いました。黃歇が楚に到着して三月、秋に、傾襄王が薨じ、考烈王が即位しました。そして黃歇を相として登用し、淮水の北の地を領土として与え、号して春申君と申しました。

 楚の懐王の時、懐王が虜囚になる前に、太子が秦から楚へ逃げかえり、そして齊へ行ってから即位したことがみえます。これは楚がよく使う手段のようですが、既に何十年も昔のことですので、同列に扱うべきではないのかもしれません。

 よく観察してみると、ここに趙、齊、楚の三人の君主が亡くなり、新たに太子が立っていることがわかります。そして、そのはさかい期に、大きな、中原の力関係を変える戦い、長平の戦いを軸とする戦いが起こったことがわかります。秦はこの交代期に付け込んだといえるかもしれません。

 ただ『資治通鑑』の筆者は、ここに王の交代を三つつなげるとともに、趙の長安君が人質として齊へ行った話、楚の太子完が人質となっていた秦から逃げかえり、即位したことを述べています。はじめに前置きを置いたはずですが、「人質の話が続いた」ことになります。これは後、秦の安国君に呂不韋が肩入れした話につながる、とも見えますが、私はこの二つの人質の話の前に、秦の悼太子が人質となっていた魏で客死していることに、前に述べたように注目しています。

 子を殺された父の怒りが、中原の国々への戦いを呼んだのではないかと思うのです。そして『通鑑』の筆者もそれを意図して記事を配置しているのではないでしょうか。

 このように、記事の配置や、文字の使い方によって作者の意図を隠して表現する方法があります。これを微言大義、とか、春秋の筆法と呼ぶのですが、ここでそのような意図があったかどうかは、『資治通鑑』のこの部分の下書きを書いた人物に聞いてみなければわかりません。

 ともかく、大きなうねりが、このあとやってきます。それが、長平の戦いです。
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