趙襄子・無恤の努力
文字数 2,132文字
一方で同じ晉 の国の家老の一人に趙簡子 という人がいました。彼の子は、年上を伯魯 といい、年下を無恤 といいました。
まさに後継者を決めようとするとき、どちらを跡取りとするか、彼は悩みました。どちらの息子が優秀であるか、よい指導者であるか、跡取りであるか、甲乙がつけられなかった、いや、弟のほうが優れているように見えたからです。
そこで彼は、二つの簡牘 (木簡 )に訓戒の言葉を記し、二人の子供に与えていいました。
「よくよくこれを覚えなさい」
はじめはもちろん二人とも努力して覚えていました。しかし、三年がたったころ、二人の間には違いが生まれていました。
ある日のことです。趙簡子は二人の息子に、それぞれ訓戒について尋ねました。
「たしか、以前に訓戒を簡牘に書いて与えたはずだが、覚えているか?」
伯魯はその言葉を挙げることができず、その木簡を求めると、すでになくしてしまっていました。
無恤に問うと、その言葉を誦読してたいへん繰り返して習っていました。その木簡を求めると、それを袖の中から出して、これを進み渡しました。
三年の間に二人の間には、越えられない差ができていたのです。
一つの訓戒を覚えていないだけで後継者の地位を失ってしまう、これは理不尽でしょうか?
しかし、一つの訓戒を覚えていない、ということは、他のいくつもの訓戒も覚えていられなかったということでしょう。
また、一つの訓戒を肌身離さず覚えようとしていたということは、他の訓戒をも必死で覚えようと努力していたということで、人選は努力の違いだったのではないでしょうか。
私なら、そのような血のにじむような努力はできませんし、伯魯にもできませんでした。趙襄子 ・無恤という人は、努力の天才だったのでしょう。きっと他にも趙簡子の目に留まる行いがあったに違いありません。
後継者の兆は、はっきりと現れたのでした。
趙簡子は無恤を後継者としました。
趙襄子はこれにより趙 氏の領地を引き継ぐこととなり、人よりも五つも優れた点を持っているという智襄子 と対決することになります。
それは重い責任を負って、一族を守るという戦いの使命を果たすことでした。
さて、当時趙簡子は晉の国に広い領地をもっていました。晉というのは前述のとおり、大きな諸侯の国だったのですが、その卿ともなれば、晉の国の中に個人の大きな領地をえていたのです。
当時の社会は、城壁をめぐらした街の中に人々が住んでいたと考えられ、それらの街を基に支配が行われていたと考えられています。私には知識がないので、この辺の整理はしかねます。ただ城(街)をいくつ持っているかが、領地の広さの基準となったと思われます。
さて、趙簡子の治める領地の一つに、晉陽 と呼ばれる城がありました。晉水 と呼ばれる川のそばにあったために晉陽(晉水の陽 )と呼ばれたのだと考えられています。
趙簡子は配下の尹鐸 という人物をして、その晉陽に赴いて土地を治めさせることにしました。
晉陽を治めることになったとき、尹鐸は趙簡子のもとにやってきました。そして尋ねたのです。
「趙簡子様、お聞きさせていただきます。晉陽の政治について、繭絲 としましょうか?それとも保障 としましょうか?」
「繭絲?保障?どういうことだ?」
趙簡子には尹鐸の言うことがいまいち腑 に落ちませんでした。
そこで尹鐸は言いました。
「蚕 の繭 は緻密に編み上げられ、漏れ残すことがございません。民の財産や富を蚕の繭のようなもので浚 え、絞りつくさなければ止めない、税収を最優先する。晉陽を繭絲で浚えましょうかとお聞き申したのでございます」
「それはいけない、民に余力がなくなってしまうだろう。一方の保障とは何のことだ」
尹鐸は答えました。
「保障の保は堡塁 の堡 でございます。この晉陽を趙 の一族の堡塁とすることでございます。障 とは砦のことにございます。民を堡や障として自分たちで結束し、趙氏一族の拠点として都市を経営することでございます。民が堡や障となるのでございます。民の生活を慈 しみ、民をこそ頼りとし、護りとし、民を培 えば培うほど『保障』がいよいよ厚くなるようになるのでございます」
「それならば、保障だ!」
趙氏の一族には、民を守りとし、民をまとめることのできる、尹鐸のような人材がいました。このような人材がいたことが、智果 を追いやった智襄子 と、明暗を分けることになりました。
尹鐸は晉陽に赴きました。
間もなく晉陽の戸数 が減ってきている、という報告が上がってきました。晉陽の戸数が減ったということは、そこにいる戦闘員も減ったということです。
しかし趙簡子は、尹鐸を批判する人間に取り合いませんでした。
「尹鐸は民を守りの基盤とする、そういっていた。尹鐸は趙氏が把握している戸数を減らし、同時に税をかける対象も少なくして民にゆとりを持たせ、富を蓄積させ、恩 を感じさせ、人心を掌握し、趙氏への忠誠心と強い結束を、必ずもたらしているだろう」
そして趙簡子は趙襄子・無恤に言いました。
「これから晉国に内乱が起こった時、尹鐸の把握している戸数を少いと思うな、晉陽を遠いと思うな、必ず晉陽を最後のよりどころとするのだ」
その言葉に、趙襄子は深くうなずきました。
まさに後継者を決めようとするとき、どちらを跡取りとするか、彼は悩みました。どちらの息子が優秀であるか、よい指導者であるか、跡取りであるか、甲乙がつけられなかった、いや、弟のほうが優れているように見えたからです。
そこで彼は、二つの
「よくよくこれを覚えなさい」
はじめはもちろん二人とも努力して覚えていました。しかし、三年がたったころ、二人の間には違いが生まれていました。
ある日のことです。趙簡子は二人の息子に、それぞれ訓戒について尋ねました。
「たしか、以前に訓戒を簡牘に書いて与えたはずだが、覚えているか?」
伯魯はその言葉を挙げることができず、その木簡を求めると、すでになくしてしまっていました。
無恤に問うと、その言葉を誦読してたいへん繰り返して習っていました。その木簡を求めると、それを袖の中から出して、これを進み渡しました。
三年の間に二人の間には、越えられない差ができていたのです。
一つの訓戒を覚えていないだけで後継者の地位を失ってしまう、これは理不尽でしょうか?
しかし、一つの訓戒を覚えていない、ということは、他のいくつもの訓戒も覚えていられなかったということでしょう。
また、一つの訓戒を肌身離さず覚えようとしていたということは、他の訓戒をも必死で覚えようと努力していたということで、人選は努力の違いだったのではないでしょうか。
私なら、そのような血のにじむような努力はできませんし、伯魯にもできませんでした。
後継者の兆は、はっきりと現れたのでした。
趙簡子は無恤を後継者としました。
趙襄子はこれにより
それは重い責任を負って、一族を守るという戦いの使命を果たすことでした。
さて、当時趙簡子は晉の国に広い領地をもっていました。晉というのは前述のとおり、大きな諸侯の国だったのですが、その卿ともなれば、晉の国の中に個人の大きな領地をえていたのです。
当時の社会は、城壁をめぐらした街の中に人々が住んでいたと考えられ、それらの街を基に支配が行われていたと考えられています。私には知識がないので、この辺の整理はしかねます。ただ城(街)をいくつ持っているかが、領地の広さの基準となったと思われます。
さて、趙簡子の治める領地の一つに、
趙簡子は配下の
晉陽を治めることになったとき、尹鐸は趙簡子のもとにやってきました。そして尋ねたのです。
「趙簡子様、お聞きさせていただきます。晉陽の政治について、
「繭絲?保障?どういうことだ?」
趙簡子には尹鐸の言うことがいまいち
そこで尹鐸は言いました。
「
「それはいけない、民に余力がなくなってしまうだろう。一方の保障とは何のことだ」
尹鐸は答えました。
「保障の保は
「それならば、保障だ!」
趙氏の一族には、民を守りとし、民をまとめることのできる、尹鐸のような人材がいました。このような人材がいたことが、
尹鐸は晉陽に赴きました。
間もなく晉陽の
しかし趙簡子は、尹鐸を批判する人間に取り合いませんでした。
「尹鐸は民を守りの基盤とする、そういっていた。尹鐸は趙氏が把握している戸数を減らし、同時に税をかける対象も少なくして民にゆとりを持たせ、富を蓄積させ、
そして趙簡子は趙襄子・無恤に言いました。
「これから晉国に内乱が起こった時、尹鐸の把握している戸数を少いと思うな、晉陽を遠いと思うな、必ず晉陽を最後のよりどころとするのだ」
その言葉に、趙襄子は深くうなずきました。