屈原、悲憤す
文字数 1,159文字
武關に入ると、秦の伏兵がその背後を断ち、そのために懷王は秦に留まることになり、人質として地を割くことを求められました。懷王は怒りました、そして聴しをあたえませんでした。亡げて趙へ行きましたが、趙は內れませんでした。また秦にゆき、ついに秦に死して帰葬されました。
長子の頃襄王が立ち、そして弟の子蘭が令尹となりました(令尹は楚の最高官位)。楚の人は子蘭が懷王に秦に入るのを勧め、結局、王が反らなかったのを咎めました。
屈平もこのことを嫉みました。左遷されているといえども、楚國を睠顧し,心を懷王に委ねて、中央に反らんと欲するのを忘れていなかったのです。幸いに君が一たび悟って、楚の国の風俗が一改するのを冀っていました。屈原のその君を大切にし、楚を興そう、楚を元に戻そうという意思は、その著作、離騒・一篇の中で三たび志を述べることで示されています。しかしそうではあるものの、ついにはどうすることもできず、そして(左遷から)戻ることもできませんでした。そして懷王が秦にとどめられ、客死するという悲劇に終わるのを見ました。
『史記』の著者・司馬遷は語っています。
人君に愚・智や賢・不肖がないことはなく、だから君主というものは忠臣を求めてそれにより自らの政治をより良いものになそうとし、賢人を挙げて自らの佐けとしようとするものです。そうではあるものの亡国の君、破家の君はみな自らの属(お気に入り)に随いますので、そうした世に、聖君、治國の君で、世を累るものが見れないのは当然で、その国のいわゆる忠なる者が忠とされず、いわゆる賢なる者が賢とされないから、国滅び、家破れるのでございましょう。
懷王はだから忠臣の分(ちから)を知らないで、そのため內には鄭袖に惑い、外は張儀に欺かれ、屈平(屈原)を疎んじて上官大夫?(靳尚)や令尹・子蘭を信じました。兵は挫かれ地は削られ、その秦よりの六つの郡を亡い、身は秦に客死し、天下の笑いものとなったのです。此れは人の禍を知らないものであるといえるでしょう。
易にいいます、「井、洩らえたれども食われず、我が心の惻みを為す。以て汲むべし。王明かなれば、並にその福を受けん」(井戸を浚渫しても飲まれない、私の心は痛む。だから井戸の水を汲もう。王が明らかであれば、みながその福を受けるだろう)と。王の明かでなければ、どうして福となるに足るでしょう!(王の不明は、禍となるのだ、王が明らかであってこそ、福は訪れるのだ)
楚の懷王は多くの国を滅ぼし、領土を拡張した王です。しかしその本質については、上記のように、司馬遷の厳しい批判を受けています。
秦への非難は、楚への甘い評価、という面も無きにしもあらず、と思ったのですが、楚はすでに厳しい評価を受けているようで、文を足すのを控えたいと思います。
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