司馬光、秦を非難す
文字数 1,270文字
周の赧王の二十一年(B.C.二九四)
秦は魏の軍隊を解に破ります。ここは塩の利権に関係した土地といわれています。
二十二年(B.C.二九三)
韓の公孫喜と魏の人が秦を伐ちました(魏の武将は身分が低かったため、名前が書かれていません)。穰侯・魏冉は左更・白起を秦王に薦め、白起を向壽に代えて兵を率いさせ、魏軍、韓軍を伊闕に破り、斬首すること実に二十四万級、公孫喜を虜にし、五城を抜きました。秦王は白起を国尉としました。(ちなみに尉は軍官の称号で、国尉、郡尉があり、上から下を安んじるという意味が尉(慰)にはあるといいます)
秦王は楚王に書を遣わしていいました。「楚は秦に倍きました、秦は諸侯を率いて楚を伐ちましょう、願わくば王は士卒を飾えなさい、まずは一たび戦を快くできるといいですなぁ!」楚王はこの書を受け取って患ました、そこでまた秦と和親しました。
二十三年(B.C.292)
楚の襄王は婦を秦より迎えました。
ここに司馬光が史論を挟んでいるので参考までに引いておきます。
「臣(司馬)光は申しあげます。甚しいことでありますなぁ、秦の無道とは、ここにその父を殺してその子を脅迫しております。楚の強くなく、競わないことをご覧ください、父を刃傷されてしかも讎と婚姻しております!烏呼、楚の君が誠に道を得ており、臣に誠に人がおりさえすれば、秦が強いといっても、どうして楚をしのぐことができましょうや!(楚には人がいなかったのです!)善いかな荀卿(荀子)のこの問題を論じていっておるのは。(ちなみに荀子は楚の官吏だったと思います)「夫れ道は、善く之を用いれば、則ち百里の地も以て獨立すべく、善く之を用いざれば、則ち楚、六千里にして讎人の役となる。」そう荀子は申しております。だから人主(君主)は道を得ることを努力せずにその勢力を広く有つだけであれば、そのような状況は危いことではあることでありますまいか」
秦の魏冉が病を理由に丞相を免ぜられ、客卿(外国出身の大臣)の燭壽が丞相となりました。
二十四年(B.C.二九一)
秦は韓を伐って,宛を抜きました。
秦の燭壽が免ぜられました。魏冉がまた丞相となりました。穰と陶とに封ぜられ、彼を穰侯と呼ぶことになりました。また公子の市を宛に封じ,公子の悝を鄧に封じました。
二十五年(B.C.二九〇)
この年、秦に、魏の黄河の東の地・四百里(安邑、大陽、蒲阪、解県などの黄河そばの地を指すと考えられる)が入り、秦に韓の武遂の地、二百里が入ることになりました。これらはすでに以前の何か所かの記載で秦に攻め取られたり、奉じられた土地であります。
魏で芒卯が始めて詐りを用いて重んじられるようになりました。
二十六年(B.C.二八九)
秦の大良造・白起、客卿・錯が魏を伐ち、軹に至り、実に城・大小六十一を攻略しました。それだけ人口の密集した地帯に、秦は攻め込むようになったのかもしれません。
急激に攻め取られる城の数が増えているのにはすこしだけ違和感を感じますが、それについてはのちほど議論いたしましょう。
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