齊の合従策と秦の縦横策

文字数 1,928文字

 周の赧王(たんおう)の三十七年(B.C.278)になりました。

 秦の大良造の白起(はくき)が楚を伐ち,(えい)を抜き、夷陵(いりょう)を焼きました。楚の襄王(じょうおう)の兵は散りぢりとなり、ついにまたは戦わず、東北方向に都を(ちん)(うつ)しました。秦は郢を南郡(なんぐん)という郡とし、白起を封じて武安君(ぶあんくん)としました。

 ただ武安縣は魏郡という地にあるとされ、実際はその武安県という地を賜ったかは疑わしいとされます。むしろよく軍士を撫養(ぶよう)し、戦えば必ず()ち、百姓(ひゃくせい)(国民)の安集を得たことから、武安という説があります。どちらかというと、後者の方が、適当なのかもしれません。

 三十八年(B.C.277)になりました。

 秦の武安君は()と、黔中(けんちゅう)とを定め、初めて黔中郡を置きました。

 魏の昭王(しょうおう)(こう)じ、子の安厘王(あんきおう)が立ちました。

 三十九年(B.C.276)になりました。

 秦の武安君が魏を伐ち、二つの城を抜きました。

 楚王は東の国境の地の兵をかき集め、十余万の軍を得て、また西の江南の十五邑を取りました。

 安厘王はその弟の無忌(むき)を封じて信陵君(しんりょうくん)としました。

 四十年(B.C.275)となりました。

 秦の相国の穰侯(じょうこう)が魏を伐ちました。韓の暴鳶(ぼうえん)が魏を救いましたが、穰侯はそれを大いに破り、斬首すること四万でした。暴鳶は開封(かいほう)に走りました。魏は八城を()れ和を講じました。穰侯はまた魏を伐ち、芒卯(ぼうぼう)を走らせ、北宅(ほくたく)に入りました。魏の人は(おん)を割いてまた和を講じました。

 四十一年(B.C.274)になりました。

 魏はまた齊と合従しました。秦の穰侯は魏を伐ち、四城を抜き、斬首すること四万にのぼりました。

 魯の湣公(びんこう)が薨じ、子の頃公讎(けいこうしゅう)が立ちました。

 四十二年(B.C.273)になりました。

 趙の人と、魏の人が韓の華陽(かよう)を伐ちました。韓の人が急を秦に告げましたが、秦王は救いませんでした。

 四十一年に魏と齊がさりげなく同盟を結んでいます。その影響もあったのかもしれません。趙・魏と背景にいる齊、韓とその背景にいる秦を想像すると面白いかもしれません。

 韓の相国は陳筮(ちんぜい)という人物に謂いました。

「事は急です、お願いにございます、(あなた)は病にあるといえども、一宿の行(一晩で秦に行く)をされんことを!」

 陳筮は秦にゆき、穰侯にあいました。穰侯はいいました。

「事は急ですか(あやういですか)?だから(あなた)に来させたのでしょう」

 陳筮はこたえました。

「まだまだ急ではございません」

 穰侯は怒っていいました。

「どうしてですか?」

 陳筮はいいました。

「あの韓が急であるならば、態度を変えて他国に従うでしょうから。そのためまだ急ではございません、だからまたこちらにお伺いしているだけです」と。

 穰侯はいいました。

「どうか兵をださせてください」と。

 趙、魏、それに齊に、韓までが加わるとやっかいだ、そういう判断があったのかもしれません。

 すぐさま穰侯は武安君(白起)と客卿の胡陽(こよう)に韓を救わせました。

 二人に率いられた秦軍は八日をかけて韓に至り、魏軍を華陽の城下に敗りました。芒卯を走らせ、三将を虜とし、斬首したものは十三万でした。

 武安君はまた趙の将・賈偃(かえん)と戦い、その兵卒二万人を河に沈めました。のち、とんでもない数の兵を長平で埋め殺す白起ですが、胡三省は人はみな生を貪って死を畏れる、二万人もと戦って、どうしてすべてを河(黄河)に沈めることができようか?計略で兵卒たちを沈めたのだ、そう主張しています。

 魏の段干子(だんかんし)は願い出ました、南陽(なんよう)を割いて秦に与え和を講じようと。蘇代(そだい)という臣が魏王に申しました。蘇代とは合従策で有名な蘇秦の親族で、このときは齊などと関係があったのかもしれません。秦に反対する論陣を張ります。

()(秦の相の印)を欲しがるもの(縦横策に従うもの)は,段干子で、土地を欲しがるものは、秦でございます。今、王は地を欲しがるものに璽を制させ、璽を欲しがるものに地を制させました、魏の地は尽きてしまいますぞ!もし地を使って秦に(つか)えれば、まるで薪を抱いて火事を救うもののようです、薪がなくならなければ,火は消えません」

 蘇代は弁をふるって説得しようとしています。王はおっしゃられました。

「それはそのとおりだ。そうはいっても、事は始まりすでに行われている、かえることはできない」

 蘇代は答えて申しました。

「そもそも博奕で(きょう)(駒の名・双六の駒)を貴ぶ理由は、便益があれば駒を食い、便益がなければ止めれる(食わないですませられる)からです。今、どうして王の智恵を用いて梟を用いるようになさらないのですか?」

 魏王はゆるされず、ついに南陽を割いて講和され、修武(しゅうぶ)に兵をまとめました。

 ここに齊の目論見はついえ、魏はまた土地を割かれています。

 この年、韓の厘王(きおう)が薨じ、子の桓惠王(かんけいおう)が立ちました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み