商君・衛鞅の最期
文字数 1,529文字
衛鞅が商の地に封じられてから、1年が経ちました。周の顯王の三十一年(B.C.338)のことです。趙良が衛鞅に直言してから、わずか五ヶ月後のことでした。秦の孝公が亡くなります。
子である、のちに恵文王となる人物、つまり皇太子が即位したのです。覚えておられるでしょうか?あの衛鞅が厳しく処断した人物です。
商君は、即座に失脚しました。
恵文王の取り巻きは容赦をしませんでした。公子虔などの仲間は、商君が、衛鞅が反乱を企てているという報告を王に伝えます。王はすぐさま捕吏を出動させ、商君を捕まえようとしました。
商君は亡げました。
どこへ?
秦の敵になれる国は限られていました。そうです、彼は魏の国へ逃げだしたのです。かつて自分が学んだ国、やってきた国、魏へ舞い戻ったのです。
なんと愚かな。
魏の国は、国境で商君を追い返しました。河西の地を浸食し、友人であった公子・卬をだまし討ちにしたうえで魏の軍をさんざんに破った商君を、魏の国の人々は許していませんでした。
あの戦いからまだ二年しかたっていません。忘れろという方が無理ですし、商君ほどの人間が魏へ逃げだしたというのは、それだけ秦から受ける圧力が強く、切羽詰まっていたということだったと思われます。
商君はまた秦に舞い戻りました。もう逃げるところはどこへもありません。商君は、今度こそ、本当に戦いを企てることになりました。封地の商於へと行きます。そこで兵を上げました。
北方にあった鄭縣という土地を攻めたと伝えられますが、しかし秦の兵がすぐやってきて、商君を捕まえました。
結果は?
彼は惨殺されました。そのことはもう言いますまい。改革者の、哀れな最期でした。家族も皆殺しにあったといいます。秦の人の怨みの深さを見るべきでしょう。
『史記』に印象的な逸話が残っています。
商君が逃げている途中、客舎(宿屋)に泊まろうとしました。客舎の主人は、その人が商君とは知らずに言います。
「商君の法では、験(身分証明)のない人物を泊めると、それに連座するんだ」
宿を追い払われた商君は、はじめて嘆きの言葉を発します。
「嗟乎!!法が厳しいことの弊害は、まさにこのようなものだったのか」と。
しかし、全ては遅かったのです。彼に歴史を変える力は、もう戻ってきませんでした。
太史公(司馬遷)はその『史記』の史評で言っています。(要旨のみ書きます)
「商君は、もともとの性格が酷薄な人物である。その欲望に従って孝公をたらしこむのに帝王の術を説き、怪しい言説を弄んで人を欺いたのは、その性質そのままではないか。さらにはお気に入りの家臣に取り入って権力を握り、権力を握ると皇太子やそのお付きを断罪し、友人である魏の公子卬ですら手にかけ、趙良の言葉に耳を傾けなかったことをみても、商君の情の少なかったことを明らかにしているではないか」
痛烈な指弾といっていいでしょう。私は極力感情を排し、冷静に彼のことを追ったのですが、彼がこのように取られていた人物だったこと、過酷な改革は怨みを買い、人を傷つけ、自らに跳ね返ってくるものであったことは、忘れないでほしいと思います。
最後に、その続きを載せて、終わりたいと思います。
「私は嘗て商君の『閉塞』、『耕戦』という書を読んだ、その人のやったことや、起こしたことは、その中に明らかに現れていた。ついに悪名を秦に受けることになった、それは、彼の心がけ、性質という理由があってのことだったのだ!!」
衛鞅という人は、評価が難しい人だな、それが書き終えての感想です。
うまく描けたかはわかりません、とりあえず、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
次章は恵文王の時代を追えたらと思います。
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