第三十二段(後半) しずのおだまき(つづき)
文字数 1,808文字
業平くんがたぶんまだ十代のころ、近所に素敵なお姉さん(たぶん人妻)がいて、業平くんが彼女の家に遊びに行って(いちおうえっちはなしだったらしい)、楽しくお話しして帰ってきたら、雨が降って、
起きもせず 寝もせで 夜を明かしては
春のものとて眺め暮しつ
ひと晩じゅう、起きもせず寝もせずみたいな感じでぼーっとしてたら明けちゃって、
ああ春だなあと思って眺めてました。
長雨
だけに。めっちゃくちゃいい歌だと思う。何がいいって、ぼーっとしてるところがいい。
「春だなあ」というところを「アオハルだなあ」と読みこむとさらにいい。十代男子の「お姉さんと本当はえっちしたかったけど、たぶんしなくてよかった。おしゃべり楽しかったから。でも」というモヤ~とした感じがすごくうまく出てる。とくに「でも」の部分。
なかなかこんなふうには書けない。
または……
大好きだった人(さっきのお姉さんとはまた別の人)が黙って引っ越していなくなっちゃって、業平くん泣いて(彼はすぐ泣く)、その人がもと住んでたお家にのこのこ行ってみて(ばかなのだ)、そしたら梅が咲いてて、
「去年はこの梅いっしょに見て楽しかったなー」と思って、立って見たり、座って見たりして(ほんとばか)、「やっぱり去年とはぜんぜん違うなー」と思って(あたりまえ)、一晩じゅうその空き家の縁側で横になっていて(なさけない)、また夜がほのぼのと明けちゃったから泣きながら帰ってきて、
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ
わが身一つはもとの身にして
月も春ももうあの頃のものじゃないってこと?
信じられない。
おれだけが同じおれのままだなんて。
「わかる!」と思う。「それな!」と思う。思うけど、こんなふうにわかりやすく、的確に言ってくれた人は彼以前にはいなかった。
なのに、これが出た後はみんなこれがあたりまえになって、みんなこれを自分の頭で思いついたみたいにかんちがいして、「それっぽい」コピーを作りあって得意になってる。ブンガクしてる。
まったくどうでもいいシチュエーションで、昔ちょっといい感じだった人に再会して贈った歌というのもある。
いにしへの しづのをだまき くりかへし
むかしを今に なすよしもがな
アンティークっぽいあれ、
あれみたいに糸を繰り出してみない?
ていうか、よりを戻してみない?
結果は、ガン無視だったらしい。ばかな業平くん。
本人もたぶん本気じゃなかったのだ。リップサービスというやつね。
こんなチャラい歌でさえ、「それな」と言いたくなるところがある。
後になって、トップアイドル兼シンガーソングライター兼ダンサーの
静ちゃんは当時、やっぱりトップアイドルの源義経くんとつきあっていて、ちょうど義経くんが激烈なバッシングを受けて芸能界追放状態だったときに、ライブで堂々と彼への愛を公表してファンの度肝をぬいたのだ。
静ちゃんバージョンは
「しずやしず しずの苧環くりかえし
昔を今になすよしもがな」
だった。「静だけに、しず」というのが可愛い。
静ちゃんのおかげで「よりを戻してみない?」なんてチャラい話じゃなくて、「あの幸せな日々をもう一度」っていうものすごく切ない歌になった。
ファンもアンチも全員号泣したらしい。
そんなわけでこの「しずの苧環」の歌には「静ちゃんのミリオンセラーソングの元ネタ」という、いわゆる
「付加価値」
が付いたわけだが、それはべつに業平くんがねらったことではない。
そしてやっぱり彼の給料アップには結びつかなかった。
でも業平くんは気にしていない。
ときどき、玄関で送り出すときなんかに、業平くんが
「あ」
と言って立ちどまることがある。
そのままじーっと集中している。そういうときは話しかけても無駄だ。わかっているから私も黙って待つ。わくわくするけど何も訊かない。
しばらくして彼、顔を上げて
「うん」
と言ってにっこりする。
ああ、一首できたんだな、と思う。
私は、目の前にいる私のことなんか忘れちゃって歌だけに集中している業平くんの真剣な顔を見るのが、とても好きだ。
※「起きもせず」の歌は『伊勢物語』第二段、「月やあらぬ」の歌は第四段に出てきます。
順番は前後してしまいましたが、どちらも大好きな歌とエピソードなので、ここに入れられてよかったです。