第三十三段 期待
文字数 1,492文字
そういうとき、私は何も訊かない。
彼が何か言うまで待っている。
「おれ、何か悪いことしたかな」
ぽつりと言う。いきなり言われてもまったく意味がわからない。
「してないと思うよ」
とりあえず、そっと答える。
彼なら、たぶん、してないと思うから。
上司のことだった。
配置換えがあって新しく来た人が、なんだかやたらめたら業平くんを気に入ってくれて、ほめそやして、大抜擢、みたいなことをしきりに言いふらしていたんだけど、
「おれぜんぜんそんな優秀じゃないから、本当困って」
なんとなーくぼーっとしてたら、
今日、全体会議の席で、全員の前で、
罵倒された、と言うのだ。
「そんなに親が宮家なのが自慢か。だったら宮家に帰ればいい」
と言われたそうだ。
なんだそれは。
意味がわからない。
だいたい、臣籍降下した人間に、どうやって宮家に帰れというのだ。
残酷にもほどがある。
「飼い犬に手を噛まれた」
と言われたそうだ。
なんだそれは。失礼にもほどがある。
「あーだめ。言わなきゃよかった」私の顔色を見ておろおろする業平くん。
「井筒すぐ怒るから。怒らないで」
そう言われて私も歯を食いしばるけど、顔がどんどん熱くなっていくのが自分でわかる。
「飼われたおぼえはない! と言ってやりなさい!」
「言わないよ」
たしかに言ってもしょうがない。
これは業平くんの問題じゃなくて、その上司なる人の問題だもの。
「いい人かなと思っていたのに、こうして遠ざかるのは悲しいね」と言う。
優しい。
「きっとおれが悪いんだよ。期待にこたえられなかったんだと思う」
「期待って何の?」
「さあ」
肩をすくめている。
業平くん自身は、他人に期待する、ということをしない人だ。もちろんいい意味で。
彼は、その人のあるがままとつきあう。
できそうでできない。私は正直、彼と出会う前はできなかった。
期待って、けっきょく、他人が自分の思いどおりに動いてほしいと願うことだ。支配欲と紙一重。とても危うい。
相手が自分の思いどおりに動いているうちはいいけど、その射程からはずれてくると
「裏切られた」
「好意を踏みにじられた」
恨みや憎しみがドロドロ出てくる。
業平くんはそういうドロドロを見ると、すっと逃げる。自分が他人の思いどおりになりたくないから、他人にもそういう思いを抱かないようにしている。
「期待にこたえられなかった」なんて謙虚そうなことを言ってるけれど、はじめから期待にこたえるつもりゼロなのだ。確信犯だ。
頼まれたことはいっしょけんめいやって、頼まれなければやらない。
そして、とくに。(ああここだな。)グループの中にいて、中心の人の歓心を買おうとして全員が先を争ったりしているときに、その波に乗らない。乗れない。
へんなの、と思ってしまうらしい。
しかたないから黙ってじっとしている。
で、結果、何もしてないのに「冷たい」「見くだしている」と言って逆ギレされる。今回の上司さんなんてまさにそれだ。
きれいな顔がこの場合ひじょうにマイナスに働く。相手にしてみたらバカにされた感、倍増らしい。
美男も楽じゃない。
有常くんもまったく同じタイプだったな、と思い出す。
だから二人とも出世できないのだ。
「有常くんに電話してみたら?」と言ってみる。私一人ではなぐさめてあげられそうにない。
「なんで?」と彼。
「なんとなく」と私。「元気?って。どうしてる?って。
きっと『だらだらしてた』って言うよ」
「そうだね」ちょっと笑ってくれた。
でも、電話しない。私を見て、かすかに笑っている。