第百二十五段 今日の彼、明日の私
文字数 1,032文字
本当は、少し前の話。うぐいすの傘の前。
すぐには書けなかった。
精密検査の結果を二人で聞きに行った。
すい臓がん。血管にも「浸潤」しているという。
何を言われているのかわからない。
すい臓がんは、自覚症状がほとんどないため、
早期発見がひじょうに困難な上に、進行が早いそうだ。
5年生存率は5%だという。
彼も私も、ぽかん、というか、きょとん、としていた。
顔を見あわせた。
「おれ、死ぬの?」
不思議そうに言う。
つひに行く 道とは
かねて
聞きしかど
思はざりしを
人間 いつかは死ぬものだと
前から
聞いてはいたけど、
思わなかったな。
──こんな。
こんな、すっとぼけた、「まんま」な辞世の句ってありますか。
空前絶後だ。
うそ、もう死ぬんだ? ってびっくりしちゃった感じが、ほんとよく出てる。
それしかない。
気負いも
しかもね。突っこんでいいですか。「昨日今日」って何。「
昨日だったらあなたもう死んでますよ。
おっちょこちょい。
この一首を詠んだだけで、彼は世界史に名を残す価値があると思う。
べた惚れの女房の言うことなんで気にしないでください。
彼の代表作を一首だけ挙げるなら、「から紅に水くくるとは」でもない。「春の心はのどけからまし」でもない。
この「昨日今日とは思はざりしを」だ。
「今日明日」が正しいけど。くどいようだけど。
外科手術を勧められた。すい臓全摘出ではないが、切除だ。
成功したら化学療法に入ると。抗がん剤だ。
「難しい手術になりますが、ご主人はまだお若くて、体力もおありなので」私たちの顔を交互に見ながらお医者さんは言った。「乗りきれると思います」
私が何か言う前に、彼がうなずいていた。
「お願いします」
力づよく言って、頭を下げている。
本人が決めてしまっているのだ。私にはどうしようもない。
いったん帰宅して、手術にそなえることになった。
帰り道、ずっと私の肩を抱いてはげましてくれていたのは、彼のほうだった。
「大丈夫。おれが井筒を残して死ぬわけないだろう」
「だいたい、まだ八千回達成してない」
そんなこと道のまん中で言わないでください。
私が泣いちゃいけないと思った。
泣けばよかったのだ。
あのとき私が泣き叫んで暴れてでも、あの手術を止めさせていたら、
あんなにあっけなく逝ってしまうことはなかった。