第四十段(後半) ペーパーバック・ライター(つづき)
文字数 812文字
序盤、『桐壺』の巻。スパダリな帝に溺愛された桐壺の更衣(光くんのお母さん)は壮絶なバッシングとマウンティングを受けた結果、病んで死ぬ設定だ。
初めて読んだとき思った。
(これモデルあたし?)
冷や汗が流れた。
私はなんちゃって宮仕えをしていたときに業平くんのあれだということが周囲にばれかけて、まさに桐壺さんと同じバッシングとマウンティングで引きこもりになった女だ。
で、『桐壺』のつづきを読んだら、ヒロインの更衣はめちゃくちゃ繊細な人で、引きこもりのすえに愛する帝の赤ちゃん(光くん)を産み落として、はかなくなる。つまり、世を去る。
これは……
(あたしに死ねってこと?)
スターに溺愛されて周囲の恨みを買った女は、病んで死ねってことか。
紫式部さんのために書いておくと、もちろん桐壺の更衣のモデルは私じゃない。紫さんはエリートすぎて私ごときは存在さえご存じない。あれは偶然だ。
ともあれ、申し訳ない。私は桐壺の更衣と違って、そこそこ鈍感にできてる。
いじめられたときは正直死にたいと思ったけど、「死にたいと思う」ということとじっさいに死ぬことのあいだには大きなギャップがある。アマゾンかガンジスくらいの大河がある。
人はそう簡単には死なない。悲しいくらいでは。
悲劇のヒロインは、読むぶんには楽しいけど、リアルに演じる気にはなれない。それよりあたしは生きたい。少なくとももうちょっと生きたい。地べたをはってでも。
そしてあと百回か千回は業平くんとえっちしたい。
「人生が芸術を模倣する」と言う。
本当だ。
このことわざのいいところは、人生は芸術の「都合のいい所だけ」模倣できるということだ。「これ私だ」と思って、嬉しくなる部分だけそう思えばいい。あとは忘れればいい。
貧乏でも隠し妻でもべつに病んで死ぬ必要はない。
ふつうに、幸せにしていればいい。