第百十九段(前半) 形見こそ
文字数 1,837文字
業平くんではない。
行平さんの。
行平さんは一度、
左遷。
理由は知らない。訊いてもきっと教えてくれない。行平さんも、業平くんも。
たぶん何かの——
連座、というか。泥をかぶった、のではないかな。
だってあの行平さんが、光源氏くんのような(そして誰かさんのような)
「よりによって帝の寵姫に手を出す」
とかそういう大失敗をやらかすとは思えない。
須磨の浜辺で潮を汲んでいる娘たちの中に——
(海水を塩田に汲み入れて塩を作るお仕事、)
ひときわ美しい姉妹がいて、
二人は選ばれて、行平さまの身のまわりのお世話をすることになった。
きれいな服と、「松風」「村雨」というきれいな名前をもらって。
現地妻
というやつですね。
え、二人まとめて?!
そこは——
微妙。お姉さんの松風さんが愛されたのは確か。
妹ちゃんの村雨さんは、あんがいそばにいただけかもね。『アラビアン・ナイト』のシエラザード妃の妹のドニアザード姫みたいに。
傷心の行平さんが松風さんに(そして村雨ちゃんに)どんなことを語ったのか。
ひとことも残ってない。
どこまで大人なの。
同じ兄弟でも、例の高子さまといろいろあって都にいられなくなって東国へふらふら行って、
「わあ煙が出てる! なんでみんな驚かないの?」
なんて無邪気な歌詠んじゃったのがばっちり残ってる誰かさんとは、ほんと、大違い。(出典:小説オール業平)
でも、しばらくして謹慎がとけて、行平さんは都へ召還される。
松風さんの幸せな時間は終わる。
行平さんは別れを告げず、黙ってそっと帰ってしまった、らしい。
浜辺の松にご自分の衣を掛け、形見に残して。
そんな。
男って
松風さんに泣かれるのが耐えられなかったんだろうとは思うけど。
それは泣くよ。だって。都には連れていってもらえない。もう正式な奥さまがいただろうし、そうでなくても彼女は海人出身の
むりに連れ帰ってみじめな目に遭わせるより、と行平さんは思ったのだろうけど、やっぱり、残酷。
わあだめだ。私が大泣きしてしまう。
松風さんが亡くなった後。
天才能楽師の
タイトルは『松風』。まんまや。(最初は『松風村雨』だったらしい。もっとまんまやな。)
舞台の上で松風さん(の幽霊さん)は、残された行平さんの衣を前にして泣いていた。
形見こそ今はあだなれ
これなくは
忘るる時もあらましものを
形見がいまはかえって苦痛です。
これがなければ
あの人を忘れる瞬間もあるはずなのに。
世阿弥さんは業平くんとなかよしなので、私たちは初演の前のリハーサルをとくべつに観せていただいた。
関係者しかいない、空きずきとした能楽堂。
私は正面まん中の良いお席で大泣きした。
隣で業平くんも泣いたけど、「井筒があんまり泣くからおれははずかしくて泣けなかった」と後で言われた。ごめんなさい。
お能は女性の役も男性が演じる。世阿弥さんご自身がヒロインの松風さんを演じていた。美しい女の人の
浜辺に立つ松を見て、ふいに松風さんが言いだす。
「ああ! あそこに行平さまが。帰ってこられた。『松風』ってお呼びになってる。
行かなくちゃ」
「お姉ちゃんしっかりして」村雨ちゃんが泣く。「あれは松よ。忘れたの?
行平さまはもう帰ってこないの」
「ばかな子ね」と松風さん。「あの松が行平さまなの」
彼女は狂ってはいない。わかっているのだ、何もかも。
「『きみが待つ(松)と聞いたら、すぐ帰ってくる』って言ってくださったじゃない」
「そうね。忘れてた。そう仰ってたよね」村雨ちゃんも涙を拭く。
まつとし聞かば いま帰り
この後はクライマックス。松を恋しい人に見立てて、松風さんが舞う。
彼の衣を身につけて。
彼の残り香に抱かれて……。
私は泣きすぎて、脱水症状になりかけた。
行平さんー!! 「帰るって約束した」って言ってるよ? ひどくない?!
「落ちついて井筒」と業平くん。「これお芝居だから」
そうでした。
だけど涙はきゅうに止まれないのでした。