第百十九段(前半) 形見こそ

文字数 1,837文字

 行平さんの悲恋の話をしよう。

 業平くんではない。
 行平さんの。

 行平さんは一度、須磨(すま)に住んでいる。三年だったかな。
 左遷。
 理由は知らない。訊いてもきっと教えてくれない。行平さんも、業平くんも。
 たぶん何かの——
 連座、というか。泥をかぶった、のではないかな。

 だってあの行平さんが、光源氏くんのような(そして誰かさんのような)
「よりによって帝の寵姫に手を出す」
 とかそういう大失敗をやらかすとは思えない。

 須磨の浜辺で潮を汲んでいる娘たちの中に——
(海水を塩田に汲み入れて塩を作るお仕事、)
 ひときわ美しい姉妹がいて、村長(むらおさ)のお子たちだった。
 二人は選ばれて、行平さまの身のまわりのお世話をすることになった。
 きれいな服と、「松風」「村雨」というきれいな名前をもらって。

 現地妻
 というやつですね。

 え、二人まとめて?!
 そこは——
 微妙。お姉さんの松風さんが愛されたのは確か。
 妹ちゃんの村雨さんは、あんがいそばにいただけかもね。『アラビアン・ナイト』のシエラザード妃の妹のドニアザード姫みたいに。

 傷心の行平さんが松風さんに(そして村雨ちゃんに)どんなことを語ったのか。
 ひとことも残ってない。
 どこまで大人なの。
 同じ兄弟でも、例の高子さまといろいろあって都にいられなくなって東国へふらふら行って、感傷旅行(センチメンタルジャーニー)のはずなのに、信州で浅間山見て
「わあ煙が出てる! なんでみんな驚かないの?」
なんて無邪気な歌詠んじゃったのがばっちり残ってる誰かさんとは、ほんと、大違い。(出典:小説オール業平)

 でも、しばらくして謹慎がとけて、行平さんは都へ召還される。
 松風さんの幸せな時間は終わる。

 行平さんは別れを告げず、黙ってそっと帰ってしまった、らしい。
 浜辺の松にご自分の衣を掛け、形見に残して。

 そんな。

 男って(むご)いことするよね!
 松風さんに泣かれるのが耐えられなかったんだろうとは思うけど。
 それは泣くよ。だって。都には連れていってもらえない。もう正式な奥さまがいただろうし、そうでなくても彼女は海人出身の雑仕女(ぞうしめ)。この私よりまだハンディある。
 むりに連れ帰ってみじめな目に遭わせるより、と行平さんは思ったのだろうけど、やっぱり、残酷。
 わあだめだ。私が大泣きしてしまう。

 松風さんが亡くなった後。
 天才能楽師の世阿弥(ぜあみ)さんが、彼女と妹さんのことを劇に作ってあげた。
 タイトルは『松風』。まんまや。(最初は『松風村雨』だったらしい。もっとまんまやな。)

 舞台の上で松風さん(の幽霊さん)は、残された行平さんの衣を前にして泣いていた。

 形見こそ今はあだなれ
 これなくは
 忘るる時もあらましものを
  形見がいまはかえって苦痛です。
  これがなければ
  あの人を忘れる瞬間もあるはずなのに。

 世阿弥さんは業平くんとなかよしなので、私たちは初演の前のリハーサルをとくべつに観せていただいた。
 関係者しかいない、空きずきとした能楽堂。
 私は正面まん中の良いお席で大泣きした。
 隣で業平くんも泣いたけど、「井筒があんまり泣くからおれははずかしくて泣けなかった」と後で言われた。ごめんなさい。
 お能は女性の役も男性が演じる。世阿弥さんご自身がヒロインの松風さんを演じていた。美しい女の人の(おもて)能面(のうめん))をつけるから、せっかくの世阿弥さんの美貌は隠れてしまっていたのに、観ているうちにその面のお顔が世阿弥さんそっくりに見えてきて、驚いた。あれって何のマジック?

 浜辺に立つ松を見て、ふいに松風さんが言いだす。
「ああ! あそこに行平さまが。帰ってこられた。『松風』ってお呼びになってる。
 行かなくちゃ」

「お姉ちゃんしっかりして」村雨ちゃんが泣く。「あれは松よ。忘れたの?
 行平さまはもう帰ってこないの」

「ばかな子ね」と松風さん。「あの松が行平さまなの」
 彼女は狂ってはいない。わかっているのだ、何もかも。
「『きみが待つ(松)と聞いたら、すぐ帰ってくる』って言ってくださったじゃない」
「そうね。忘れてた。そう仰ってたよね」村雨ちゃんも涙を拭く。

 まつとし聞かば いま帰り()

 この後はクライマックス。松を恋しい人に見立てて、松風さんが舞う。
 彼の衣を身につけて。
 彼の残り香に抱かれて……。

 私は泣きすぎて、脱水症状になりかけた。
 行平さんー!! 「帰るって約束した」って言ってるよ? ひどくない?!
「落ちついて井筒」と業平くん。「これお芝居だから」
 そうでした。
 だけど涙はきゅうに止まれないのでした。
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登場人物紹介

井筒(いづつ)

この物語の語り手。恋人の業平くんと熱愛中だという以外は詳細不明。とある事情で彼との関係は公表できないらしい。その秘密がしだいに明らかに!(大した秘密ではない)

業平くん(なりひらくん)

フルネーム:在原業平(ありわらのなりひら)。この物語の主人公。井筒の恋人。

超ベストセラー小説『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとされるイケメンで、名だたる美女たちとのうわさが絶えないが、素顔は天然で井筒ひとすじ。

まったく出世・昇進できなくても気にしないマイペース男。和歌の天才。

有常くん(ありつねくん)

フルネーム:紀有常(きのありつね)。業平くんの親友。業平くんを介して井筒とも友だち。
業平くんと同じかそれ以上にマイペースでぶれない男。
史実および『伊勢物語』の世界観においては「井筒」にあたる女性の父親で、業平より十歳年上なのだが、この『今日カレ』の中では同い年に設定されている。むろん井筒のパパではない。

至くん(いたるくん)

フルネーム:源至(みなもとのいたる)。業平くんの悪友で彼以上の、というか無類の女好き。

史実および『伊勢物語』の世界観においては業平より十歳年上なのだが、この『今日カレ』の中では同い年に設定されている。
第三十九段限定のスペシャルゲストだったはずなのに、みょうにキャラが立ってしまったため、その後もときどき登場している。

高子さま(たかいこさま)

女御。帝の寵姫。絶世の美女で「二条の后(きさき)」と呼ばれる。過去に業平くんとの熱愛を報道され一大スキャンダルとなった。その真相が本文中で明らかにされる。
性格は凛として知的。藤原家の期待を一身に背負って立つ。

恬子さま(やすらけいこさま)

内親王(皇女)。伊勢神宮の斎宮(巫女)。過去に業平くんとの熱愛を報道され高子さまに次ぐ大スキャンダルとなった。その真相が本文中で明らかにされる。
性格は純真可憐。兄君の惟喬さまと同じくおっとりはんなりしている。

惟喬さま(これたかさま)

親王(皇子)。恬子さまの兄宮。業平くん有常くんとは和歌友だちで大の仲良し。
第一皇子で、本来なら次の帝の第一候補のはずだったのに、陰謀によって帝位から遠ざけられた悲運の人。でもおっとりはんなりした性格のおかげで、出家後も皆の人気者。お酒は好きだが、わりと弱い。

融さま(とおるさま)

フルネーム:源融(みなもとのとおる)。富豪でセレブで風流人。光源氏の本命モデル。
凝った庭園のある大豪邸に住んでおり、人を集めては詩歌管弦の遊びをして楽しんでいる。
業平くんとは和歌友だちで大の仲良し。
第八十一段限定のスペシャルゲスト。

行平さん(ゆきひらさん)

フルネーム:在原行平(ありわらのゆきひら)。業平くんのお兄さん。在原家の実質上の大黒柱。
才能ある歌人でイケメンなのに、いつもやんちゃな弟にぜんぶ持っていかれ、それでも気にしない器の大きい人。
光源氏の部分モデルといううわさも。百十九段にその話が出てくる。

家持さん(やかもちさん)

フルネーム:大伴家持(おおとものやかもち)。「いえもち」ではないので要注意。

和歌界のビッグ・ダディ。『万葉集』全二十巻を編纂した大物で、業平くんと違って漢字も得意(万葉集はすべて漢字で書かれています)。愛妻家でありながら、何人もの女性との恋歌の贈答で知られる恋愛の達人。

史実では業平よりまるっと1世紀前の人。第百五段限定のスペシャルゲスト。

敏行くん(としゆきくん)

フルネーム:藤原敏行(ふじわらのとしゆき)。業平くん有常くんの高校時代のクラスメート。成績優秀で性格もいい素敵男子。
業平くんとは三十六歌仙友だちでもあり、百人一首にもなかよくいっしょに入っている。
史実および『伊勢物語』の世界観においては紀有常の娘、つまり「井筒」にあたる女性の姉妹を妻にしている。
第百七段限定のスペシャルゲストだが、素敵なのでまた出てくるかもしれない。

世阿弥さん(ぜあみさん)

世阿弥は芸名。本名:観世三郎元清(かんぜさぶろうもときよ)。
能楽を大成した天才で、自身も役者。その美貌と名演で一世を風靡。この世に心を残した美しい亡霊が出てくる「複式夢幻能」というスタイルを確立した。
ついでだけど「序破急」という作劇法を考えたのも彼。これは本来ダンスのテンポ感を表したものなので、小説を書くときなんかにむやみに応用しないほうがいい(本人談)。
業平くんの大ファン。
史実では業平よりまるっと五世紀半後の人。

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