第六十七段(前半) 汗
文字数 1,067文字
虫歯の治療はあっさり終わった(そりゃそうだ)。それでも、型を取って、削って詰めて、というので二、三回はかかった。
その間、口のなか全体のレントゲン写真を見て、先生に勧められたのだそう。
「親知らずが四本ともありますね。抜いたほうがいいですね」
「三分に一回言われた」
んなわけなかろう。
でも、そうとうくりかえし言われたのは確からしい。
「抜かなきゃだめでしょうか」と業平くん。
「そうですね。抜いたほうがいいですね」と先生。
「抜かないとどうなるんでしょうか」
「炎症を起こすかもしれません」
「かならず?」
「かならずとは言えませんが、この状態だといつか起こすと思います。抜いたほうがいいですね」
「どうしても抜かなきゃだめでしょうか」
「そうですね」
無限ループ。
業平くんの一人二役再現ドラマのあいだ、ずっと笑っている私。
「で、抜くの?」
「うるさいから」業平くん、ぷんぷんしている。
先生は仕事が早くて、すぐさま大病院の口腔外科あてに紹介状を書いてくれた。
「いやだなー」ずっと言ってる。「いやだなー。ほんとに抜くのかなあ」
三分に一回言ってるのはきみじゃないか。
ふと思いついて、まさかね、と思ったけど、いちおう訊いてみた。
「ついていってあげようか……?」
「うん」
なんと。
ハウス!と言われたわんこもかくやという、せつなそうな目だ。
彼の名誉のために言っておくと、若い頃バイクで事故って骨折し、入院したこともある。お医者さんのお世話になるのが初めてなわけじゃないのだ。
「あれは骨折だから」
意味がわからない。
大病院の一階で書類の記入をすませ、広いビル内を移動して、口腔外科の入り口に着いた。
口腔外科の受付の人、なぜか私のほうばかり見て話しかけてくる。
「優しいご主人でよかったですね」
にこにこされて、やっと気がついた。
彼のほうがつき添いだと思われている。
もう一度彼の名誉のために言っておくと、私もコロナワクチン接種のときは彼につき添ってもらった。
正確に言うと、当日の朝、彼がメッセージをくれて
「おはよう。今朝ワクチン十時だよね。気をつけていってらっしゃい」
返事がないので不安になり、まさかね、と思って自転車をとばして来てみたら、私は熟睡していた。
危なかった。しかも
「井筒! チケット忘れてる」
追いかけてきてくれたのだ。
業平くん、ふだんはてきぱきしていて、何でも私よりできる。料理だって彼のほうが得意なくらいだ。
いったい親知らずの何が、彼をそこまで狂わせるのであろうか。
狂ってないけど。