第六段 朝露
文字数 1,119文字
これは、できそうで、できない。
これができる人に、業平くん以外会ったことがない。
たいていの男は、昔の女の話をする。
よかった話をするのは論外だが、つらかった話をされたことが何度もある。ふんふんと聞きながら思ったものだ。で、あたしにどうしろと?
つきあっているなら、まあ甘えられているということなのだろうけれども、つきあってもいない男から知らない女の愚痴を聞かされるのは、本当にリアクションに困る。
「それはさ」と業平くん。「井筒をくどいてたんだよ」
「え、うそ」
「そうだよ。わからないかなー」
「うそだあ」
「わかってたんでしょ? ほんとは」
にやにやしている。
いや……
いや。お見通しなのは凄い。
もしかして、そうなのかな? とは、ちょっと思った。
だけど言わせてもらうと、女をくどきたいときに昔の彼女の愚痴を聞かせる、というのはかなりの悪手じゃないの? 女にしてみたらゴーかストップかわからないよ。
そう言うと、
「男はばかなんだよ」
嘆息している。
とはいえ、私もばかで、昔の男の愚痴を業平くんにうっかり聞かせたりしている。だめじゃん私。ばかばか。
そういうとき彼は辛抱づよく聞いてくれる。これも偉大だ。
そしてときどき、ぴりっと的確なコメントをくれる。
「ああ、いるね、そういう男。相手をアクセサリーだと思ってる。まわりに見せびらかすための」
「わかる?」
「わかるよ」
吐き捨てるように言う。
めったにそういう表情をしない人だから、こちらもどきっとする。
「不思議だよね」と私。「もう心臓止まって、息も止まって、死ぬと思うのに、朝起きるとちゃんとおなかすくの」
「そうそう」と彼。
「何だろうね、人間って。悲しいくらいでそうかんたんに死なないね」
「死なない」と彼。「悲しいくらいで」
「朝起きると、ちゃんと腹減るんだよな。ほんと不思議」
こうして字で書くと私にあいづちを打ってくれているだけなのだけど、彼の表情を私は見ている。
いつもののんきな明るさが、ふっと色を変える。
暖かな春の陽気が一瞬のうちに冷え、すうっと
ような顔をするのだ。
彼にもやっぱり永遠に明けないと思われた夜があったのだ。
その夜が明け、食卓につき、
(あ、おれ、腹減ってる)
そう気づいて、流れていかない涙に微苦笑した朝があったのだ。
その傷を彼に与えた女が誰だったのか、私は一生知ることはない。
ただ、その朝の彼の顔が、私にはまるで見たかのように思い浮かぶ。
こういうとき私たちは、手を重ねない。
ただ、体温が伝わるくらい近くで、じっとしている。