井筒(十) (終)
文字数 1,068文字
私の前には、月に光るすすきの原が広がっていた。
シテは、片膝をついて、
手伝ってあげようか、業平くん。
業平くん。
私に、わからないとでも思った?
後シテが第一声を発したとき、私の耳が、聞きのがすとでも思った?
世阿弥さんの声じゃないでしょう。
あなたでしょう。
「井筒」
面を取った業平くんが、笑っている。
「おいで」
私の足もとに、白い玉石が、小川のように敷きつめられている。結界。
その線を——
踏み越える。
〈神の
駆け寄ったら、かるがると抱きあげてくれた。
拍手が、
ええ何、ここで拍手?! はずかしい!
ふりかえる。やっぱり有常くんだ。お坊さんの衣装のまま拍手している。にこにこ。にやにや、だな。やめて、もう。
あっ、至くん、敏行くん。ほんとやめて、はずかしいから。
行平さんまで。目をぬぐってる。泣いてる行平さん、貴重。しまったスマホどこ、写真撮りたいのに。
かん高いはしゃぎ声にふりかえると、井戸のまわりで子どもたちが遊んでいる。
男の子と女の子。あれ? 男の子、二人いる。
「
と業平くんが呼ぶ。
「
男の子たちが駆けだす。
「あんまり遠くへ行っちゃだめだよ」
そうだった。こちら側の世界では——
私は彼と、三人の子どもを育てていて——
息子たちは、彼そっくりに育って、二人ともりっぱな歌人になるんだった。
ひとり残されてべそをかいている女の子を、彼が抱きあげる。
そしてこの子は、藤原家に嫁いで——
今上天皇の、直系の祖先になるんだった。
ふいに美子が「きゃっ」と声を上げた。
「やーん! パパのばかー!」
業平くんがほっぺたをつまんだらしい。泣きだして彼の腕から飛び降り、兄たちを追って走っていく。
「自分の娘にセクハラしてどうするの」笑いながら私が言う。
「ひどいな」大げさに嘆いてみせる彼。「愛情表現だよ」
言いながらさりげなく私の、ほっぺでなく別の所をつまんでくる。
「きゃ」
「右の頬をつままれたら、左の頬もさし出しなさい」
「そこ頬じゃないよね?」
走っていく美子の背中で、ちっちゃなおさげがはねている。仔犬のしっぽみたい。
「昔ね」見送りながら彼が言う。
「なあに?」
その横顔が、もう、やだ、あいかわらずいい男っ。
とデレていて、私は正直なにも聞いていない。
「小学校の入学式の日にね。
前の席に座ってた女の子が、おさげで」
うん。そのお話、知ってるよ。
業平くん。
——今日の彼、明日のあたし 完——