第六十二段 顔も声も
文字数 720文字
と業平くんが言う。
たぶん、ものすごく何度もやられてきているのだ。
女にも、男にも。
「なんでわざわざ言いに来るんだろうね」
首をひねっている。
「わざわざ言いに来なければ、おれの顔見るの一回少なくてすむのに」
「それはさ」と私。
「わかってほしいのよ。『私はこんなに傷ついてます』って」
そう言いながら彼の顔を見たら、笑っている。
なあんだ。わかってるんだ。
以前そうやって罵詈雑言を浴びせて去った人と、今日、ぐうぜん再会したのだそうだ。
「やあ」
と彼がにこにこして手を上げたら、突然泣きだして走り去ったのだそうだ。
「なんでかなー」
首をひねりながら笑っている。ふふ。
業平くん自身は、一度も言ったことがないそうだ。その「顔も見たくない、声も聞きたくない」というやつ。
「一度も?」と訊くと、
「一度も」きっぱり言う。
「おれはドジだから」と言う。「いつ何どき、その人にまたお世話になるかわからない。
そのときに泣きながら走り去らなきゃいけないようなことはしないように、ふだんから気をつけてる」
おお。なるほど。
「たとえ相手に原因があったとしても、それで傷つくのはおれの問題だから。
わざわざ相手に言いに行く必要はない」
なるほど!
「『自分はこんなに傷ついてます』なんて言いに行くひまがあったら、そのあいだに一首作れる」
「その気もちを題材にして?」
「そう」
「本当に歌詠みなんだね!」
「歌詠みだよ」笑っている。「他の何だと思ってたの?」
「『あなたのせいでこんなに傷ついてます』っていう歌、いっぱい詠んでるよね?」
「あれは歌だから」
大笑いしている。
本当に歌詠みなのだ。