第六十段 花橘[はなたちばな]
文字数 572文字
もう結婚して人妻になっていた。
デザートのフルーツの中に、小ぶりのオレンジがあった。オレンジの汁って手につきやすい。
ナプキンで指を拭いていたら、ななめ向かいに座っていた彼女と目が合った。
「まさかそこでにっこり笑ったりしてないよね?」と私。
「いや、だって」と彼。「むすっとしてるのも感じ悪い」
「オーマイガッ。じゃあ、笑顔と、即興で歌詠んであげたのとセットだったんだ」
「……」
「もうー。いい歌思いついたからって、すぐ贈っちゃだめっていつも言ってるでしょ」
むかしの人の袖の香ぞする
「ひさびさに傑作できた!と思って」と彼。
「傑作だよ」と私。「傑作だけどね。
みだりに歌を贈ってはいけません!」
五月を待って咲く橘の花の香りをかいだら、
昔好きだった人の袖の香りがしたよ。
「それだけの話だもん」と彼。
「女は『それだけ』には取らないの」と私。
「なんで?」
「『なんで』じゃなくて、いいかげん学びなさい。
まさか、ちょっと指かいでみせたりしてないよね?」
「だって、いい香りが」
「オーマイガッ」
相手の彼女、立花さつきさん(仮名)は、その後まもなく離婚してしまったのだ。
「おれのせいじゃない」この
きみのせいじゃなきゃ誰のせいなのよ。