第八十三段 雪の日
文字数 898文字
惟喬さまが出家してしまわれた、と知った日だ。
業平くんも私も、ただ泣いた。
だって惟喬さまはまだ二十九なのだ。
どんな思いで。
帝になるばかりが幸せではないと思う。思うけれど、そこじゃない。
本当なら当然あっていい選択肢の、いちばん大きい可能性が、他人の勝手な都合でつぶされる、というのは、どんな気もちだろうということです。
お若いのに。
若いってなんて残酷なんだろう。これから長い長い年月を、ただ耐えていかなくちゃならない。
業平くんは惟喬さまのご庵室を訪ねていった。小野というのは比叡山のふもとで、雪が積もって深かった。たどり着くのに大変な思いをしたらしい。
あのお優しい、すなおな、いつも小川のように輝いておられた惟喬さまがそんな所に。
帰ってきても業平くん、ずっと泣いている。
惟喬さまはすることがなくて、お寂しそうだったそう。
一日じゅうおそばにいて、昔の楽しい思い出ばなしをしてさしあげて……
以前の惟喬さまは業平くんが遊びに行くと喜んで、彼に甘えて、
「お酒をあげる」「あれもあげる、これもあげる」
とはしゃいで業平くんを帰してくださらなくて、とうとう夜明かししてしまったり、そんな晴ればれとしたおかただったのに、
お
業平くん次の日お勤めがあるから、夕方「帰ります」と言うと、黙ってうなずかれる。
忘れては 夢かとぞ思ふ
思ひきや
雪踏みわけて君を見むとは
お話ししていたら昔のままで、ふっと、現実を忘れそうになりました。
これは夢じゃないのでしょうか。
あの頃——桜狩りのお供に呼んでいただいて楽しかった頃は、想像もしていませんでした。
深く積もった雪を踏みわけて来ないと、お目にかかれないような日が来るとは。
こうして書き写しながら、私も涙をぬぐっている。
自分も年取ったなあと思う。
この業平くんの歌がこんなに哀しい歌だということ、以前の私にはわからなかった。
ただ、哀しくて、優しい歌だ。自分は消し飛んでしまって、人のために泣いている。
他に何も入っていない。