井筒(四)

文字数 760文字

 笛の音が聞こえた。能管(のうかん)。鏡の間から。
 始まりますよ、の合図。

 客席の空気もととのう。

 静かに、囃子方(はやしかた)のかたがたが橋掛を渡ってくる。黒紋付に袴。
 舞台中央の奥に着席する。
 笛方(ふえかた)小鼓方(こつづみかた)大鼓方(おおつづみかた)の三人。今日は太鼓方(たいこかた)は出ないみたい。ということは、静かな劇なのね。

 舞台、向かって右奥に小さな引き戸。この「切戸口(きりどぐち)」から、地謡(じうたい)のかたがたがやはり黒紋付で音もなく入ってくる。茶室に入るみたいに身を低くして、一人ずつ、八人。
 右端に、中央を向いて、二列に並んで正座する。正面席の私には横顔を見せて。

 地謡は──
 魔法の仕掛けだ。
 オペラの合唱と違って「村人たちその一、その二」みたいな人格がない。でもニュートラルなナレーターともかぎらなくて、背後からそっと亡霊の気もちを代弁してくれたりもする。
 まさに、風のような。雨のような。
 まわりの草木のような。

 いよいよ始まる。まずはワキのお坊さまの登場ね。
 と思っていたらその前に、
 すっと揚幕が上がって、しずしずと「作り物」が運ばれてきた。
 細い、白い、立方体の枠。細い竹に白布を巻いて組んだもの。

 何だろう。

 あ。
 井戸、だ。
 井戸を表しているんだ。「井筒」って丸く掘って四角い井桁(いげた)をはめた井戸のことだもの。
 一つの角に何かくくりつけてある。あれは──

 (すすき)

〈私なんて松も桜も似合わないよー。薄ってとこ?〉
〈おれ、薄、好きだよ〉

〈だってお月さまにいちばん近いのは、薄だから〉

 あの会話を聞いていたはずないのに。世阿弥さん。
 どうして? あなたこそ神?
 これだけで涙が出そう。嬉しくて。

 笛の一声が、物語を呼び出す。
 揚幕が上がる。

 遠い道を、旅の僧が歩いてくる。ワキは地謡と同じく面はつけない。水のように穏やかなお顔で歩いてくる。
 ああ。誰かに似てると思ったら。

 有常くんに似ている。
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登場人物紹介

井筒(いづつ)

この物語の語り手。恋人の業平くんと熱愛中だという以外は詳細不明。とある事情で彼との関係は公表できないらしい。その秘密がしだいに明らかに!(大した秘密ではない)

業平くん(なりひらくん)

フルネーム:在原業平(ありわらのなりひら)。この物語の主人公。井筒の恋人。

超ベストセラー小説『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとされるイケメンで、名だたる美女たちとのうわさが絶えないが、素顔は天然で井筒ひとすじ。

まったく出世・昇進できなくても気にしないマイペース男。和歌の天才。

有常くん(ありつねくん)

フルネーム:紀有常(きのありつね)。業平くんの親友。業平くんを介して井筒とも友だち。
業平くんと同じかそれ以上にマイペースでぶれない男。
史実および『伊勢物語』の世界観においては「井筒」にあたる女性の父親で、業平より十歳年上なのだが、この『今日カレ』の中では同い年に設定されている。むろん井筒のパパではない。

至くん(いたるくん)

フルネーム:源至(みなもとのいたる)。業平くんの悪友で彼以上の、というか無類の女好き。

史実および『伊勢物語』の世界観においては業平より十歳年上なのだが、この『今日カレ』の中では同い年に設定されている。
第三十九段限定のスペシャルゲストだったはずなのに、みょうにキャラが立ってしまったため、その後もときどき登場している。

高子さま(たかいこさま)

女御。帝の寵姫。絶世の美女で「二条の后(きさき)」と呼ばれる。過去に業平くんとの熱愛を報道され一大スキャンダルとなった。その真相が本文中で明らかにされる。
性格は凛として知的。藤原家の期待を一身に背負って立つ。

恬子さま(やすらけいこさま)

内親王(皇女)。伊勢神宮の斎宮(巫女)。過去に業平くんとの熱愛を報道され高子さまに次ぐ大スキャンダルとなった。その真相が本文中で明らかにされる。
性格は純真可憐。兄君の惟喬さまと同じくおっとりはんなりしている。

惟喬さま(これたかさま)

親王(皇子)。恬子さまの兄宮。業平くん有常くんとは和歌友だちで大の仲良し。
第一皇子で、本来なら次の帝の第一候補のはずだったのに、陰謀によって帝位から遠ざけられた悲運の人。でもおっとりはんなりした性格のおかげで、出家後も皆の人気者。お酒は好きだが、わりと弱い。

融さま(とおるさま)

フルネーム:源融(みなもとのとおる)。富豪でセレブで風流人。光源氏の本命モデル。
凝った庭園のある大豪邸に住んでおり、人を集めては詩歌管弦の遊びをして楽しんでいる。
業平くんとは和歌友だちで大の仲良し。
第八十一段限定のスペシャルゲスト。

行平さん(ゆきひらさん)

フルネーム:在原行平(ありわらのゆきひら)。業平くんのお兄さん。在原家の実質上の大黒柱。
才能ある歌人でイケメンなのに、いつもやんちゃな弟にぜんぶ持っていかれ、それでも気にしない器の大きい人。
光源氏の部分モデルといううわさも。百十九段にその話が出てくる。

家持さん(やかもちさん)

フルネーム:大伴家持(おおとものやかもち)。「いえもち」ではないので要注意。

和歌界のビッグ・ダディ。『万葉集』全二十巻を編纂した大物で、業平くんと違って漢字も得意(万葉集はすべて漢字で書かれています)。愛妻家でありながら、何人もの女性との恋歌の贈答で知られる恋愛の達人。

史実では業平よりまるっと1世紀前の人。第百五段限定のスペシャルゲスト。

敏行くん(としゆきくん)

フルネーム:藤原敏行(ふじわらのとしゆき)。業平くん有常くんの高校時代のクラスメート。成績優秀で性格もいい素敵男子。
業平くんとは三十六歌仙友だちでもあり、百人一首にもなかよくいっしょに入っている。
史実および『伊勢物語』の世界観においては紀有常の娘、つまり「井筒」にあたる女性の姉妹を妻にしている。
第百七段限定のスペシャルゲストだが、素敵なのでまた出てくるかもしれない。

世阿弥さん(ぜあみさん)

世阿弥は芸名。本名:観世三郎元清(かんぜさぶろうもときよ)。
能楽を大成した天才で、自身も役者。その美貌と名演で一世を風靡。この世に心を残した美しい亡霊が出てくる「複式夢幻能」というスタイルを確立した。
ついでだけど「序破急」という作劇法を考えたのも彼。これは本来ダンスのテンポ感を表したものなので、小説を書くときなんかにむやみに応用しないほうがいい(本人談)。
業平くんの大ファン。
史実では業平よりまるっと五世紀半後の人。

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