井筒(三)

文字数 1,424文字

 複式夢幻能(ふくしきむげんのう)
 カリスマアーティスト世阿弥さんが確立した、オリジナルのスタイルだ。

 美しい幽霊が出てくる。伝説の美女や武将たちだ。
 かならず、美しい姿で出てくる。生前より美しいくらい。

 何も悪さはしない。
 ただ、思い出を誰かに聞いてほしいだけ。
 たいていは哀しい思い出。

 幽霊だからふつうの人には見えない設定で、たいていお坊さんが脇役でそばにいる。
 静かに霊たちの話を聴いて、いっしょに哀しんで、祈ってくれる。

 松風さん村雨ちゃんの劇は、古い形が残っていて、出てきたときからきれいな幽霊さんたちだった。それだと「複式」ではない。
「複式」の場合、前半と後半ではっきり分かれる。

 こんな感じ。
 旅のお坊さんが、小さなお墓やお寺などを見つける。そこへ村の人だと名乗る人が出てきて、誰のお墓なのか説明してくれる。その説明がみょうに詳しい。
 お坊さんは気づく。もしや、ご本人? お墓の主……?
 村人や村娘ははずかしそうに「そうだけど、後でね」と言って、いったん退場する。

 退場して、着替えて出てくる。こんどは生前のとおり、伝説の美姫や勇将のすがたで。
 幽霊。魂魄(こんぱく)だけの存在だ。
 生前の思い出をお僧に語って、舞う。その記憶にとらわれて苦しいから、お祈りして成仏させてくださいと頼む。
 そしてお祈りに送られて、帰っていく。
 消えていく。

 主人公が「シテ」(仕手)、聞き役のお僧が「ワキ」(脇)。
 着替える前の主人公は「(まえ)シテ」で、後が「(のち)シテ」だ。
「前シテ」と「後シテ」は同じ役者が演じるけれど、別の役になるわけだから、パンフレットには二つ役名が書いてある。

 前シテ 里の女
 後シテ 井筒とよばれた女

 どきどき。
 大丈夫なんでしょうか世阿弥さん。
 まさか、

 前シテ 里の女
 後シテ やっぱり里の女

 なんてことないでしょうね? ビフォーとアフターどっちも地味とか?
 わあ、がっかりきのこ。
 でも私、松風さんと違って、もう若くないしなぁ。

 あれ?
 役名リストの中に、業平くんの名前がない。
 この劇、業平くん出てこないの? 「お二人の物語」って世阿弥さん言ってたのに。
 どういうこと。まさか私がひとりで業平くんののろけをだらだらしゃべるだけのまったり展開? やだ、どうしよう。
 天才(ジーニアス)世阿弥さんのことだから、きっと何かサプライズなしかけがあるよね?
 信じて待つしかない。どきどき。

 能楽堂の屋根の下に、能舞台そのものの屋根があって、二重になっている。
 舞台から、向かって左手のほうに渡り廊下がつづいている。「橋掛(はしがかり)」というんだそう。
 いちばん向こうに「揚幕(あげまく)」という小さな五色の幕が下がっていて、その向こうは舞台裏。役者の皆さんが(おもて)を付けて衣装をととのえる「鏡の間」がある。
 楽屋ではない。「鏡の間」は、楽屋と舞台の中間にある。

 この世と、もうひとつの世界の中間に。

 能舞台は客席の床からずいぶん高いところにある。正面に階段がついているけれど、そこを上がったり下りたりするのを私は見たことがない。(ごくたまに劇中で使うらしい。)
 階段の下、つまり能舞台のまわりには、ぐるりと白い玉石(たまいし)が敷きつめられている。やっぱり、客席からはそこを踏み越えて舞台へ上がってはいけないみたい。
 結界、なんだな。

 能舞台は、この世という海に半島のように突き出した、異界だ。

 業平くん。
〈井筒が主人公の芝居なんて、はずかしいから隠れて観る〉って言ってたね。
 どこに隠れてるの?
 そろそろ、始まるよ。
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登場人物紹介

井筒(いづつ)

この物語の語り手。恋人の業平くんと熱愛中だという以外は詳細不明。とある事情で彼との関係は公表できないらしい。その秘密がしだいに明らかに!(大した秘密ではない)

業平くん(なりひらくん)

フルネーム:在原業平(ありわらのなりひら)。この物語の主人公。井筒の恋人。

超ベストセラー小説『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとされるイケメンで、名だたる美女たちとのうわさが絶えないが、素顔は天然で井筒ひとすじ。

まったく出世・昇進できなくても気にしないマイペース男。和歌の天才。

有常くん(ありつねくん)

フルネーム:紀有常(きのありつね)。業平くんの親友。業平くんを介して井筒とも友だち。
業平くんと同じかそれ以上にマイペースでぶれない男。
史実および『伊勢物語』の世界観においては「井筒」にあたる女性の父親で、業平より十歳年上なのだが、この『今日カレ』の中では同い年に設定されている。むろん井筒のパパではない。

至くん(いたるくん)

フルネーム:源至(みなもとのいたる)。業平くんの悪友で彼以上の、というか無類の女好き。

史実および『伊勢物語』の世界観においては業平より十歳年上なのだが、この『今日カレ』の中では同い年に設定されている。
第三十九段限定のスペシャルゲストだったはずなのに、みょうにキャラが立ってしまったため、その後もときどき登場している。

高子さま(たかいこさま)

女御。帝の寵姫。絶世の美女で「二条の后(きさき)」と呼ばれる。過去に業平くんとの熱愛を報道され一大スキャンダルとなった。その真相が本文中で明らかにされる。
性格は凛として知的。藤原家の期待を一身に背負って立つ。

恬子さま(やすらけいこさま)

内親王(皇女)。伊勢神宮の斎宮(巫女)。過去に業平くんとの熱愛を報道され高子さまに次ぐ大スキャンダルとなった。その真相が本文中で明らかにされる。
性格は純真可憐。兄君の惟喬さまと同じくおっとりはんなりしている。

惟喬さま(これたかさま)

親王(皇子)。恬子さまの兄宮。業平くん有常くんとは和歌友だちで大の仲良し。
第一皇子で、本来なら次の帝の第一候補のはずだったのに、陰謀によって帝位から遠ざけられた悲運の人。でもおっとりはんなりした性格のおかげで、出家後も皆の人気者。お酒は好きだが、わりと弱い。

融さま(とおるさま)

フルネーム:源融(みなもとのとおる)。富豪でセレブで風流人。光源氏の本命モデル。
凝った庭園のある大豪邸に住んでおり、人を集めては詩歌管弦の遊びをして楽しんでいる。
業平くんとは和歌友だちで大の仲良し。
第八十一段限定のスペシャルゲスト。

行平さん(ゆきひらさん)

フルネーム:在原行平(ありわらのゆきひら)。業平くんのお兄さん。在原家の実質上の大黒柱。
才能ある歌人でイケメンなのに、いつもやんちゃな弟にぜんぶ持っていかれ、それでも気にしない器の大きい人。
光源氏の部分モデルといううわさも。百十九段にその話が出てくる。

家持さん(やかもちさん)

フルネーム:大伴家持(おおとものやかもち)。「いえもち」ではないので要注意。

和歌界のビッグ・ダディ。『万葉集』全二十巻を編纂した大物で、業平くんと違って漢字も得意(万葉集はすべて漢字で書かれています)。愛妻家でありながら、何人もの女性との恋歌の贈答で知られる恋愛の達人。

史実では業平よりまるっと1世紀前の人。第百五段限定のスペシャルゲスト。

敏行くん(としゆきくん)

フルネーム:藤原敏行(ふじわらのとしゆき)。業平くん有常くんの高校時代のクラスメート。成績優秀で性格もいい素敵男子。
業平くんとは三十六歌仙友だちでもあり、百人一首にもなかよくいっしょに入っている。
史実および『伊勢物語』の世界観においては紀有常の娘、つまり「井筒」にあたる女性の姉妹を妻にしている。
第百七段限定のスペシャルゲストだが、素敵なのでまた出てくるかもしれない。

世阿弥さん(ぜあみさん)

世阿弥は芸名。本名:観世三郎元清(かんぜさぶろうもときよ)。
能楽を大成した天才で、自身も役者。その美貌と名演で一世を風靡。この世に心を残した美しい亡霊が出てくる「複式夢幻能」というスタイルを確立した。
ついでだけど「序破急」という作劇法を考えたのも彼。これは本来ダンスのテンポ感を表したものなので、小説を書くときなんかにむやみに応用しないほうがいい(本人談)。
業平くんの大ファン。
史実では業平よりまるっと五世紀半後の人。

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