第七段 もちぷに
文字数 1,047文字
こんなご時勢だからということもあるけど、
私たちには、旅行に行けない事情がある。
私が業平くんの嫁だということ、世間には公表していない。
「行きたいなー」と私。
「うん?」と彼。
「伊勢」
私たちは伊勢で出会った。
「何、きゅうに」
「これ」
あのとき水族館のおみやげ屋さんで「井筒見っけ!」と言って買ってくれたぬいぐるみだ。
もちぷにあざらし。
体長50センチ。幅40センチ。色は白。
再現率高っ。いや、私のでなくてリアルあざらしの。
まあジュゴンのティッシュカバーでなくてよかった。
「伊勢行きたいなー」とつぶやくと、黙っている。
「業平くんと行きたいなー」と小声でもうワンプッシュすると、
「おれだって行きたいよ」と嘆息する。
ごめん。
この話題は、いつもここで終わりになる。
じつは業平くんは、世が世なら、皇位継承権のある血筋だった。
在原氏、というお家に降りたとき、その可能性はなくなった。
「臣籍降下」というやつ。
親王(皇子)さまだったお父さまが、皇族をおやめになって在原の姓をたまわった。そのとき、業平くんも「天皇の孫」からふつうの貴族になった。
ようするに、ひとことで言うと私は、業平くんとは、
身分がつり合わない。
世が世ならな彼にひきかえ私は、平凡なサラリーマンの娘。
自分で言うのも何だけど、私、まあ、素材としてはこれといって悪いところもない、つもりだ。ひじょうに顔が不自由だとか頭が不自由だとか、いうほどではない。
というか、業平くんが選んでくれたんだから、
私だってそのへんの女には負けてないと思うけど、
いかんせん、
家が貧乏だ。
書いてて泣きたくなってきた。
笑えるけど。
いちおう、つてを頼って宮仕えをしてみたことはある。
そのあいだに一度、業平くんのあれだということが周囲にばれかけた。
あのときのいじめは凄かった。いま思い出すだけで動悸が激しくなってくる。トイレに入ったら最後閉じこめられるからトイレにも行けない。
業平くんと伊勢の浜辺を笑って歩いた日のことを思うと、夢のような気がする。
「この子ほんとにもっちもちのぷにっぷにだね」ぬいぐるみをわしわしもみながら私が言う。
「井筒だよね」と彼。
「失礼な」と私。「私はこんなに体脂肪率ないぞ。あざらしは50パーセントなんだって」
「そうじゃなくて」
「何」
「可愛い」
「あざらしが?」
「井筒。すべすべ。もちもち」
「やめなはれ」
あざらしを私がもみ、その私を彼がもむといういつもの展開だ。