第六十九段(後半) ソーサー

文字数 1,651文字

 その日の昼間は業平くん、狩りに出る。接待というやつね。
 ゴルフじゃなくてよかったね。鷹狩りは彼の一族、在原家のお家芸なのだ。お兄さまの行平(ゆきひら)さんも名人だったそう。

 野にいても気はそぞろ。
「夜になってくれ、早く。今夜こそ」
って心拍数めちゃくちゃ上がってるのに、こういうときに限って地元のお偉いさんが
「なに京から業平さまがわざわざ。それはそれは。わしもおもてなしせねば」
って宴会。オール(一晩中)!
 おっさん!
 いらん。超いらん。あー読んでて殺意わいてきた。あたしの心拍数もだだ上がり。
 だって次の日はもう業平くん、尾張名古屋へご出立なのよ! しゃちほこよ! しゃちほこ関係ないけど、でもひどくない? もう二度と会えないの。
 おっさんおっさんおっさんおっさん!!(怒)
 
 男は、血の涙を流すけれども、
 あ、いちおう、目から血が出るんじゃないからね、これホラーじゃないから。心がはり裂けそうな涙のことです。
 血の涙って。
 業平くん……。(泣)

「すみません。ぼくはそろそろ」
「まあまあそう言わず、もう一杯」
「いえ、ほんとに」
「座って座って」
 最悪。業平くんけっきょく宴会から脱け出せないまま夜が明けちゃう。
 いるよね、こういう人。
 おっさん。(激怒)

 ふと見ると、女から杯がまわってきている。
(何)
 業平くんは勘がいい。胸をとどろかせて、そっと杯を持ち上げる。人に見られないように。
 杯の受け皿(ソーサー)に、

 歌が。

 ここよ! ここ!
 大胆だと思わない? 宴会のさいちゅう、お皿に歌書いて渡しちゃうの。誰かに見られたらジ・エンド、大笑い。自分でもよくあんなこと、
 あっいまのなし(削除(デリート)

 歌は、上の句だけ。前半だけ。
 それなら万が一見られても、業平くんが機転をきかせてごまかしてくれると思った。

 かち人の
 渡れど濡れぬ(えにし)あれば
  徒歩(かち)で渡っても濡れないほどの浅瀬。
  そんなはかないご縁でしたね。
  だから

 ここまで。
 ここまで書いて、後は彼にあずける。

「あはは、どこぞのかんちがいした侍女さんがこんな歌をぼくに」
「どれどれ」
なんて酒のサカナにされる可能性は、
 ないと信じた。彼は優しいから。
 でも賭けだった。

 だから、さようなら。元気でね。
 下の句にそう書いて返してもらえたら、一生の宝物にしようと思った。
 きみのことは忘れないよ。
 くらいのリップサービスもらえたら、あのお皿抱いて身を投げて死のうと思った。幸せすぎるから。幸せなうちに。
 だって生きていても、これ以上幸せなことなんてもうない。二度とない。
 悲しくて死のうとしたことはない。
 幸せすぎて。
 死のうと思った。
 
 お皿が返ってきた。
 下の句が書き足してある。灯りに使った消し炭で。

 また逢坂の関は越えなむ
  検問きびしい大坂の関を越えて。どんな障壁も越えて。
  また逢いに来ます。

 業平くん。
 
 月刊オール業平、凄い。最後はこうしめくくってある。
「斎宮は、文徳天皇のご息女。惟喬親王(これたかのみこ)の妹宮であった」
 恬子さま名指し。
 だけど巧妙。本文中に、この「女」が斎宮さまだとは、
 



 だいたい、おかしいと思いませんか。斎宮さまがご寝所によその男泊める? 地元のおっさんに自宅でお酒出す? ないない。宴会場は別棟。オール(ナイト)の宴会に最後までつきあってお酌する? ないない。そんなの私たち女官たちにまかせて、先にお休みになるに決まってる。巫女さまは朝早いのです。

 否定すればするほどうわさって確定してしまうもの。高子さまがいい例。恬子さまも、それをよくご存知だったにちがいない。もちろん業平くんもね。
 天下の色おとこ在原業平にはスキャンダルがよく似合う。禁断の恋! 帝の寵妃のつぎはなんと斎宮!
 伊勢まで出かけて見初めたのがそのへんのつまらない女官だなんて話、誰も期待してない。がっかり。たとえその女が少々歌が詠めて彼と意気投合したんだとしても、そんなの地味すぎてネタにならない。

 〈また逢坂の関は越えなむ〉

 業平くんは、約束を守る人だった。
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登場人物紹介

井筒(いづつ)

この物語の語り手。恋人の業平くんと熱愛中だという以外は詳細不明。とある事情で彼との関係は公表できないらしい。その秘密がしだいに明らかに!(大した秘密ではない)

業平くん(なりひらくん)

フルネーム:在原業平(ありわらのなりひら)。この物語の主人公。井筒の恋人。

超ベストセラー小説『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとされるイケメンで、名だたる美女たちとのうわさが絶えないが、素顔は天然で井筒ひとすじ。

まったく出世・昇進できなくても気にしないマイペース男。和歌の天才。

有常くん(ありつねくん)

フルネーム:紀有常(きのありつね)。業平くんの親友。業平くんを介して井筒とも友だち。
業平くんと同じかそれ以上にマイペースでぶれない男。
史実および『伊勢物語』の世界観においては「井筒」にあたる女性の父親で、業平より十歳年上なのだが、この『今日カレ』の中では同い年に設定されている。むろん井筒のパパではない。

至くん(いたるくん)

フルネーム:源至(みなもとのいたる)。業平くんの悪友で彼以上の、というか無類の女好き。

史実および『伊勢物語』の世界観においては業平より十歳年上なのだが、この『今日カレ』の中では同い年に設定されている。
第三十九段限定のスペシャルゲストだったはずなのに、みょうにキャラが立ってしまったため、その後もときどき登場している。

高子さま(たかいこさま)

女御。帝の寵姫。絶世の美女で「二条の后(きさき)」と呼ばれる。過去に業平くんとの熱愛を報道され一大スキャンダルとなった。その真相が本文中で明らかにされる。
性格は凛として知的。藤原家の期待を一身に背負って立つ。

恬子さま(やすらけいこさま)

内親王(皇女)。伊勢神宮の斎宮(巫女)。過去に業平くんとの熱愛を報道され高子さまに次ぐ大スキャンダルとなった。その真相が本文中で明らかにされる。
性格は純真可憐。兄君の惟喬さまと同じくおっとりはんなりしている。

惟喬さま(これたかさま)

親王(皇子)。恬子さまの兄宮。業平くん有常くんとは和歌友だちで大の仲良し。
第一皇子で、本来なら次の帝の第一候補のはずだったのに、陰謀によって帝位から遠ざけられた悲運の人。でもおっとりはんなりした性格のおかげで、出家後も皆の人気者。お酒は好きだが、わりと弱い。

融さま(とおるさま)

フルネーム:源融(みなもとのとおる)。富豪でセレブで風流人。光源氏の本命モデル。
凝った庭園のある大豪邸に住んでおり、人を集めては詩歌管弦の遊びをして楽しんでいる。
業平くんとは和歌友だちで大の仲良し。
第八十一段限定のスペシャルゲスト。

行平さん(ゆきひらさん)

フルネーム:在原行平(ありわらのゆきひら)。業平くんのお兄さん。在原家の実質上の大黒柱。
才能ある歌人でイケメンなのに、いつもやんちゃな弟にぜんぶ持っていかれ、それでも気にしない器の大きい人。
光源氏の部分モデルといううわさも。百十九段にその話が出てくる。

家持さん(やかもちさん)

フルネーム:大伴家持(おおとものやかもち)。「いえもち」ではないので要注意。

和歌界のビッグ・ダディ。『万葉集』全二十巻を編纂した大物で、業平くんと違って漢字も得意(万葉集はすべて漢字で書かれています)。愛妻家でありながら、何人もの女性との恋歌の贈答で知られる恋愛の達人。

史実では業平よりまるっと1世紀前の人。第百五段限定のスペシャルゲスト。

敏行くん(としゆきくん)

フルネーム:藤原敏行(ふじわらのとしゆき)。業平くん有常くんの高校時代のクラスメート。成績優秀で性格もいい素敵男子。
業平くんとは三十六歌仙友だちでもあり、百人一首にもなかよくいっしょに入っている。
史実および『伊勢物語』の世界観においては紀有常の娘、つまり「井筒」にあたる女性の姉妹を妻にしている。
第百七段限定のスペシャルゲストだが、素敵なのでまた出てくるかもしれない。

世阿弥さん(ぜあみさん)

世阿弥は芸名。本名:観世三郎元清(かんぜさぶろうもときよ)。
能楽を大成した天才で、自身も役者。その美貌と名演で一世を風靡。この世に心を残した美しい亡霊が出てくる「複式夢幻能」というスタイルを確立した。
ついでだけど「序破急」という作劇法を考えたのも彼。これは本来ダンスのテンポ感を表したものなので、小説を書くときなんかにむやみに応用しないほうがいい(本人談)。
業平くんの大ファン。
史実では業平よりまるっと五世紀半後の人。

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