第六十七段(後半) 汗(つづき)
文字数 1,553文字
たしか、週に一本ずつ、四週かけて抜いてもらったと思う。
四本のうち一本がくいっと曲がった形で、そのままでは引き抜けなかった。麻酔を何本も打って、まず歯ぐきを切開して歯を四分割し、ひとつずつ取り出していく。
局所麻酔がよく効いたおかげで痛くはなかったのだが、歯を割る槌の「コンコン」というのがあごから頭蓋骨にめちゃくちゃ響く。緊張した。
途中で先生が
「まずいな」
とつぶやくのが聞こえ、
あれ本当にやめてほしいですよね! 世のお医者さまがたに伏してお願いいたします!
手術の途中で「まずいな」なんて言わないで。
聞こえてます!!
私が目を見ひらいて固まっていたら、「血が出てないんですよ」と説明してくれた。本当ならもっと出血するはずなのにあふれてこない。
つまり、私は恐怖のあまり、貧血を起こしていたのだ。
帰りぎわ、とっても心配され、「気分が悪くなったらすぐ腰かけて休んで、誰かに助けてもらうようにしてくださいね」みたいな念まで押されて、よけい動揺した。まあ、いまとなっては笑い話なんだけど、年の瀬のイルミネーションがぼうっと遠くに見えた記憶は忘れられない……
なんていう話をいま業平くんにしていいものか、迷っていたら、
なんと、同じように割って出さないといけない歯が一本あると言う。
「またついていってあげようか?」
「ううん、いい。ひとりで行く」
私のほうがつき添いだとわかった瞬間の、受付の人の顔が忘れられないらしい。そうとう屈辱だったらしく、「ほんとに大丈夫?」と何度訊いても「平気」と言いはる。
当日、私は時計ばかり見ていた。
もう始まったかな。いまどのへんかな。
もうあの「槌でコンコン」やられてるのかな。かわいそうだな。痛くないといいな。
痛くありませんように。
無事に生還してきたときは、思いっきりぎゅうとハグしてあげた。
がんばったね!!
無事、というわけでもなかったらしい。
担当の先生は「毎日歯を抜いて二十年です。あっはは」と自己紹介したという豪傑(女医さん!)。そばに若い助手さん(やはり女性)がひかえていて、つぎつぎと器具など渡す。テレビの医療ドラマの手術シーンと同じだなと、コンコンやられながら業平くん思ったそうだ。
先生、手ぎわはいいのに、なぜかよりによって今日に限って麻酔があまり効かない。
「汗」と先生が言う。
「ちがう。
患者の」
私がつっぷして笑いころげた数分間は早送りします。
「痛いですか?」豪傑女医どのにふしぎそうにのぞきこまれ、業平くんの怒りは沸点に達した。
(痛いから、痛いから汗かいてるの!!!!!)
痛かったら手を上げてくださいねーなんて歯医者さんはよく言うけれど、手、上げっぱなしどころかもう天井突き抜けちゃうよってこと、ありますよね。
その後、四本とも抜き終わり、めでたく抜糸もすみました。
「お祝いしよう!」と私がはしゃぐと、業平くん複雑な顔をしている。
「どしたの?」
「うん」もじもじしている。「あのね」
ん?
「誰も気がついてくれないの」悲しそうに言う。「おれが親知らず抜いたこと」
「え……、まわりの人たちに言ったの?」
「言ってない」
んん??
「もう、もとのおれじゃなくなっちゃったのに」沈痛な面持ち。「誰も気がついてくれない」
もとのおれって。何を失ったというのだ、きみは。
「言ったら?」と私。「『親知らず、全部抜いたんですよ』って。『大変だったんですよ』って」
「言わない」
空を流れていく雲をさびしげに見送って、窓辺にたたずんでいる。
絵になる光景だ。
横で笑い死にかけている私さえいなければ。