井筒(六)
文字数 1,059文字
あたりに秋の野花が咲きみだれる。
お僧にうながされて、女は、業平とその妻のものがたりを語りだす。
「昔、このあたりに、隣どうしのお家があって」
「門の前にあった井戸のそばで、小さな男の子と女の子がなかよく遊んでいました。
ふたりで井戸をのぞきこんで、水鏡に顔を映して。
そのときは、水と同じく透明で、無邪気な心でしたけれど」
「だんだん大人になってきて、はずかしくて、顔を合わせられなくなり」
ええっ何その胸キュン設定!
「しばらくして、男の子は女の子に、心のこもった素敵な手紙を書いて、歌を贈りました」
井戸の高さと比べっこしていたぼくの背丈も、
すっかり高くなったよ、大好きなきみに会わないでいるうちに。
ぼくも大人になったんだ。
だから……その……
(※「
「女の子も、お返事を書きました」
比べ
君ならずして
あなたと二人で比べっこしていた私の髪も、肩より長くなりました。
この髪は、あなたに結い上げてもらいたいです。
つまり……他の男の人には、さわってほしくないの。
声は、里の女からではなく、
地謡のひとびとから、湧くように流れてくる。水のように、風のように。
世阿弥さん。
私は、ほとんど息もつけずに、舞台を見つめていた。
世阿弥さん、これ、私じゃないです。
私が、なりたかった私です。
この世界では、こちらの世界では、私は。
夢をかなえさせてもらっていた。
人生のいちばん初めに彼に出会って。そのまま彼の妻になって。
なんの疑いも、迷いもなく。
世阿弥さん。ありがとう。
業平くんの生涯を描くときに、私を、井筒を、選んでくれて。
ううん、私が高子さまや恬子さまに「勝った」とかそういうことじゃない、ぜんぜんちがう、そうじゃなくて、
業平くんを——
禁断の恋に苦しんだ不幸な人、ではなく、
とっても幸せな人として、
ひとりのおバカな女にとことん愛されて、
その女をとことん愛してくれた、
とーっても幸せな、おバカな男として描いてくれて。
なんのドラマともスキャンダルとも無縁の、
ただただ、穏やかで幸福な、デレッデレの一生として描いてくれて。
「そのときね。井戸のそばで彼と遊んでいたとき。
わたし、まだ五歳だったんです。五つ。
井筒
だけに」うわーここでギャグ入れてきた! 世阿弥さん!
ありがとう。
涙がとまりません。