第五段 猫蕎麦
文字数 906文字
と業平くんが言う。
「うそ」
「ほんと」
前に私が住んでいたマンションの近くに、蕎麦屋があった。
先代からやっている地元のお店らしかったから、なくなることはないだろうと思っていたのに、そうか。
やっぱり昨今は厳しいのかもしれない。
前のマンションまで業平くんは、いつも電車を乗り継いで会いに来てくれたものだった。
なつかしい。
なぜ私が引っ越したかと言うと、別れた夫との思い出があるからいやだったのだ。
もちろんそこに上書きされた業平くんとの思い出もあったから、引っ越すと決めたとき業平くんは、うっすら哀しそうな顔をしたのだけど、見つかった物件が業平くんの住まいにだんぜん近くて自転車で来られることがわかったとたん、二人とも興奮してしまって前の部屋のことはきれいに忘れた。
なのに、「仕事で近くまで行ったついでに寄ってみた」のだと言う。
「ひさしぶりだったから道忘れちゃってて」と彼。
「あのへんも変わったからじゃないの?」と私。
「そうかもしれない。とにかく思い出せなくてどきどきした。『このへんだったはずなのにな』ってうろうろして、曲がり角で『そうだここ入るんだった』って思い出して曲がったら、ちゃんとあった。○○マンション」
「曲がるんだよ」
「曲がるんだね。忘れてた」
「あんなに何度も来てくれたのに忘れちゃったの?」
「うん。いつも着いた後のことしか考えてなかったから」
笑っている。
その問題の曲がり角に、かつて猫蕎麦があったのだ。
猫蕎麦、というのは、業平くんの勝手な命名だ。そんな名前の蕎麦屋がありますか。
蕎麦屋のおやじさんが飼い猫なのか野良なのか、いつも猫にえさをあげていたのだそう。
私も猫は見た。これがまた、三毛猫なのに、ということはたぶん雌なのに美人さんなのに、みょうに貧相で、いつもびくびくしている残念な子だった。
「猫蕎麦なんていうとお蕎麦に猫が入ってるみたいでまずそうだからやめなよ」私も笑う。
「もうなくなっちゃったんだから同じだよ」と彼。
「そうか」
「まずそうだったけどなー」
「え、食べたことなかったの? 一度も?」
「ないよ」笑っている。「いつも、早く着きたくて急いでたから」