第六十六段 がっかりきのこ
文字数 937文字
帰ってきて、ひどくしょげている。
虫歯が見つかり
「削って詰めましょう」
と言われたのだそう。
なんと業平くんは、この歳まで虫歯が一本もなかった。
私なんて乳歯のころからしょっちゅう虫歯になって、抜かれたり削られたり詰められたりの人生だ。
虫歯一本でそんなに落ちこむかなあ、赤ちゃんじゃないんだから、と思っておかしくてしょうがないんだけど、本人は真剣だ。
初めての経験というものは、かくも人を不安にさせるものらしい。
「助手の女の人が『ただの着色(ステイン)か虫歯かわからないから、先生にお訊きしましょうね』って言って」と業平くん。
「でね、先生が来て、見た瞬間
『ああ、ちょっと削って詰めましょう』
って言うんだよ。ひどくない?」
うん? 何か問題が?
「
ため
が欲しいじゃない、ため
が」と言う。「見た瞬間」かるくあごをしゃくって「『ああ削って詰めましょう』だよ」
似てる似てる、クールな先生のものまね。私も同じ先生にお世話になっているのだ。
「せめてさ、こんなふうに」手をあごに当てて眉をひそめる。芥川龍之介の有名な肖像写真みたいだ。
「『ああ、これは……』」しばし絶句して、
「『削るしか……ないですね……』」
沈鬱そのものといった表情。
「『まことにお気の毒ですが、現代の医学では、他に手のほどこしようがありません』」
「だから削って詰めてくれるって言ってるじゃない」
「『われわれも最善を尽くしたのですが、力およばず……申し訳ございません』」
「だから削って詰めてくれるって」
「それくらいは言ってほしい!」
「虫歯一本で?」
「彼は」大まじめに言う。「なくしたね」
「何を?」
「人として大切なものを」
「『人として』って」私はすでに笑い死にかけている。
「じゃ、医者として。医者になりたてのころは誰もが持っていた、柔らかーい心の大切な部分を、なくしたね」
「だから治療してくれるって」
「もうあんな歯医者行ってあげない」
「行って治してもらいなさいって」
「がっかりきのこ」
「え?」
「がっかりきのこが生えちゃった」心底くやしそうに言う。
「どこに生えちゃったの?」笑い涙を拭きながら私。
「いろんなとこ」と彼。
どこよ。
がっかりきのこ、可愛すぎる。
おみおつけの実に入れてあげようか?