第四十五段 蛍
文字数 665文字
知らない人だ。
彼も私も、茫然としている。
数日前。仕事帰りの業平くんを呼びとめる人があった。
まったく知らない人。五十がらみの男性。
「じつは、娘が、あなたさまを……お慕いしておりまして」
あとは男泣きの涙でことばにならない。
仰天して聞いたら、娘さんは入院していて、今日明日のいのちだという。
とるものもとりあえず駆けつけて、そのお父さんの後について病室に入ったら、
心電図の波形がフラットになった直後だった。
体がばらばらになってしまいそうなくらいお父さんが泣くので、業平くんも泣いた。
お母さんのほうがしっかりしていて、泣きながらも、細く小さい声で「ありがとうございました」と業平くんにくりかえし頭を下げ、
「顔を見てやってください」
と言うので、見ると、かすかに微笑んでいる。
「父さんが業平さんを連れてきてやる」
そう行って飛び出していったお父さんの後ろ姿を見送って、微笑んだのだそうだ。
本当に知らない子なんだ、と業平くん。
娘さんは遠くから見て、ただ憧れていたらしい。ご両親がそれを知ったのも死の直前だったらしい。
お葬式でまたお父さんに大泣きされ、業平くんはとても困った。周囲の視線が突き刺さり、針のむしろで、何をどうしたかよく憶えていないと言う。
「本当に知らない子なんだよ」
昔だったら、ここで——
蛍がひとつ、ふっと、空高く舞っていったりするところだ。
帰ってきて、喪服のまま椅子に腰かけ、じっとしている彼。
そっと後ろから抱きしめる私。
どうしようもないことって、あると思う。