井筒(八)
文字数 739文字
業平くんが歩いてくる。でも、顔は、井筒。
男の衣装。黒い冠に、紫の
運ぶ足は、はにかんだ女の足取り。
直衣は濃紫に、薄紅と白の花の縫い取り。華やかだ。業平くんらしい。
あの花は何?
しだれ桜と——
春の紅葉?
〈春の紅葉はいいね〉
この形見が、衣があるせいで、あの人を忘れられないのです。
そう言って松風さんは泣いていた。
井筒は泣いていない。にこにこしている。嬉しいらしい、大好きな業平くんの着物が着られて。
私は涙をこぼしながら笑ってしまった。世阿弥さん、ほんとすごいと思って。
見抜かれた。
そう、井筒は、
ばかなのだ。
世阿弥さん「前作を超えたい」って、どんな新機軸を出してくるのかと思ったら。
まさかの。
同一プラン。
女が恋しい男の服を着て舞うというね。
それでいてまったく違う。同一プランなのに、百八十度違う。
むしろ渾身のわざだ。難度高い。
業平くんに扮した、井筒が謡う。
今は亡き世になりひらの
形見の直衣
身にふれて
形見の直衣、というところで、声がふっと高くなり、じっと袖を見つめる。
はづかしや
昔男に 移り舞い
声を地謡が、風たちが引きとる。
雪をめぐらす花の袖
序ノ舞。「序」は、ゆっくりで静かという意味。
井筒が舞う。ううん、井筒の演じる業平くんが舞う。
業平くんを愛してくれた人たちに——
井筒が、業平くんの在りし日の姿を、見せてあげている。
すべてがあった。雪と、花と、月と、紅葉と薄と、風と水。
井筒は、業平くんの衣だけでなく、
彼の言葉に抱きしめられて、舞っていた。
からころも 着つつなれにし 妻しあれば
はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥
わが思ふ人は ありやなしやと