井筒(五)
文字数 1,029文字
私はさすらいの僧です。
旅の僧が名乗る。客席の私たちに向かって。
舞台と客席のあいだには白い玉石の結界があるのに、言葉はかるがるとそれを超えてくる。
遠い未来。
諸国の有名な神社仏閣をめぐる旅の途中で、お僧は小さな、荒れはてた寺を見つける。
有常くん似のお坊さま、静かに、静かに足を運ぶ。
鼓たちがそっと鳴りはじめる。カン、と澄んだ大鼓。トン、と柔らかな小鼓。
舞台中央の前のほうに、白い井戸と薄。
お僧はその後ろに座る。井戸は枠だけだから、透かして彼の姿が見える。紺の衣に茶の上着をかさねている。
ああ、ここが、とお僧は言う。
昔、在原業平ご夫妻が住んでいらしたという場所なのですね。
奥さまが、ご主人の身を案じて、
「あの人はいま、どのあたりかしら。
どうかご無事で」
と空をながめていたという、あの場所なのですね。
数珠をとり出して、祈ってくれる。
舞台の上には何もないのに——
彼の衣の、藍が夜空に。茶が古寺の軒に。
ふわりと動く数珠の純白の房が、
ゆらめく薄に、変わっていく。
ふたたび、風のように笛が入ってきて、
揚幕がふわりと上がり、
橋掛の
可愛い……!
松風村雨さんのような、白と真紅のあざやかな装束ではない。
淡い朱と灰緑色の小袖だ。秋の野花が散らしてある。
舞台に到着して、
——仏さまにお供えする毎朝の、夜明けのお水。月も私の心を澄ませてくれるようです。
暁ごとの
暁ごとの閼伽の水
月も心や澄ますらん
ゆっくりとふりむく。
微笑んでいる。
あれが私?
「井筒さんて、本当にいつも笑顔ですよね」
あのとき世阿弥さんにそう言われて、驚いたのだった。
そんなことないですよ? わたし泣き虫の怒りんぼうですよ、と言おうとしたら、業平くんが先に答えた。
「そう、この人はよく笑うんだ」
それは業平くんが笑わせるから、面白いことばかり言ったりしたりするから……
私、こんなふうに見えてるの、世阿弥さん?
自分で思っている自分とぜんぜんちがう。だめな私と。
本当にこんなふうに見えていたなら……
業平くんも、そばにいて、楽しかったかな?
世阿弥さんの声、よく通る。面をつけているのにこもらない。
定めなき世の
何の音にか覚めてまし
とりとめのないこの世を、夢見るようにただよっている私の心。
何の音がこの夢から覚ましてくれるのだろう。