第八十七段(後半) ドライマティーニ(つづき)

文字数 1,165文字

 二人が職場で同じ課にいたとき、親睦旅行に行った話になった。
 布引(ぬのびき)の滝。六甲山麓にある、日本三大神滝の一つだ(あとの二つは日光の華厳の滝と、熊野の那智の滝)。
「あの滝壺が龍宮城につづいてるって伝説の?」
「そうそう。井筒さんよく知ってるね」
 源平盛衰記に出てくる。こう見えて(どう見えて?)私は源平サーガの愛読者なのだ。

 布引の滝、本当に、布を引いたように見えるからのネーミングだそう。
 親睦旅行に参加した同じ課の人の旅行記が残っている。
「その滝、ものよりことなり」
 その滝はふつうの滝とは一味も二味も違う。
「長さ二十丈、広さ五丈ばかりなる石のおもて、白絹(しらぎぬ)に岩をつつめらむやうになむありける」
 長さ約六十メートル、広さ約十五メートルの石の面を、水が豊かに流れるさまは、白絹で岩を包んでいるかのようだ。

「さる滝の(かみ)に、藁座(わらうだ)の大きさして、さしいでたる石あり」
 その滝の上へ座布団大の石が突き出ていて、
「その石の(うへ)に走りかかる水は、(せう)柑子(かうじ)、栗の大きさにてこぼれ落つ」
 その石の上をほとばしる水は、小さなみかんや栗くらいの大きさの玉になってこぼれ落ちていく。

「水滴みかんサイズって盛りすぎ?」三人で笑った。
 でも、雰囲気がよく出てる。それくらいキラキラして勢いよく見えたということね。

 皆さん平安貴族だから、そこで歌を詠みあったそうだ。
「その話はいいよ」業平くん、すでに照れている。
「おれが」と行平さん。「ちょっとふざけた歌を詠んじゃったんだよね。
『おれの時代はいつ来るのかなあと思うと、涙がほとばしってこの滝くらいになる』みたいな。
 そしたらこいつが」
「もういいよ」
 業平くん照れすぎて、立ってお手洗いに行ってしまった。

「業平さんはどんな歌詠んだんですか?」と私。
「それがね」と行平さん。
「『誰かが緒をぬいて、真珠を散らしちゃったのかな?
 おれみたいなせまーい肩身の袖にも、涙がふりかかってきて止まらないんですけど』
 もうみんな爆笑で、どっかんどっかん」
「はあ」
 どこがそんなに面白いのか私にはいまいちわからなかったが、どうやら「兄貴につられて末席のおれまでもらい泣きしちゃいました」的な感じで、自分たちの不遇を自虐ネタっぽく歌にしたらしかった。
 しかも真珠、キラキラで。みんなの気分上げて。

「あいつにはかなわない」
 行平さん、微笑んでいる。
 その笑みがふっと深くなって、言われた。
「あいつのこと、よろしくね」

 在原家の皆さんは、私を業平くんの嫁として認めてくれる、この世で数少ない人たちだ。
 本当にありがたい。
 ちょっと泣きそうになってしまったので、ごまかそうとして、笑って言ってみた。
「行平さん、お父さんみたいですね」
 そうしたら大げさに傷ついた顔をされた。
「おじさん扱いしないで」

 こういうところは行平さん、業平くんとよく似ている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

井筒(いづつ)

この物語の語り手。恋人の業平くんと熱愛中だという以外は詳細不明。とある事情で彼との関係は公表できないらしい。その秘密がしだいに明らかに!(大した秘密ではない)

業平くん(なりひらくん)

フルネーム:在原業平(ありわらのなりひら)。この物語の主人公。井筒の恋人。

超ベストセラー小説『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとされるイケメンで、名だたる美女たちとのうわさが絶えないが、素顔は天然で井筒ひとすじ。

まったく出世・昇進できなくても気にしないマイペース男。和歌の天才。

有常くん(ありつねくん)

フルネーム:紀有常(きのありつね)。業平くんの親友。業平くんを介して井筒とも友だち。
業平くんと同じかそれ以上にマイペースでぶれない男。
史実および『伊勢物語』の世界観においては「井筒」にあたる女性の父親で、業平より十歳年上なのだが、この『今日カレ』の中では同い年に設定されている。むろん井筒のパパではない。

至くん(いたるくん)

フルネーム:源至(みなもとのいたる)。業平くんの悪友で彼以上の、というか無類の女好き。

史実および『伊勢物語』の世界観においては業平より十歳年上なのだが、この『今日カレ』の中では同い年に設定されている。
第三十九段限定のスペシャルゲストだったはずなのに、みょうにキャラが立ってしまったため、その後もときどき登場している。

高子さま(たかいこさま)

女御。帝の寵姫。絶世の美女で「二条の后(きさき)」と呼ばれる。過去に業平くんとの熱愛を報道され一大スキャンダルとなった。その真相が本文中で明らかにされる。
性格は凛として知的。藤原家の期待を一身に背負って立つ。

恬子さま(やすらけいこさま)

内親王(皇女)。伊勢神宮の斎宮(巫女)。過去に業平くんとの熱愛を報道され高子さまに次ぐ大スキャンダルとなった。その真相が本文中で明らかにされる。
性格は純真可憐。兄君の惟喬さまと同じくおっとりはんなりしている。

惟喬さま(これたかさま)

親王(皇子)。恬子さまの兄宮。業平くん有常くんとは和歌友だちで大の仲良し。
第一皇子で、本来なら次の帝の第一候補のはずだったのに、陰謀によって帝位から遠ざけられた悲運の人。でもおっとりはんなりした性格のおかげで、出家後も皆の人気者。お酒は好きだが、わりと弱い。

融さま(とおるさま)

フルネーム:源融(みなもとのとおる)。富豪でセレブで風流人。光源氏の本命モデル。
凝った庭園のある大豪邸に住んでおり、人を集めては詩歌管弦の遊びをして楽しんでいる。
業平くんとは和歌友だちで大の仲良し。
第八十一段限定のスペシャルゲスト。

行平さん(ゆきひらさん)

フルネーム:在原行平(ありわらのゆきひら)。業平くんのお兄さん。在原家の実質上の大黒柱。
才能ある歌人でイケメンなのに、いつもやんちゃな弟にぜんぶ持っていかれ、それでも気にしない器の大きい人。
光源氏の部分モデルといううわさも。百十九段にその話が出てくる。

家持さん(やかもちさん)

フルネーム:大伴家持(おおとものやかもち)。「いえもち」ではないので要注意。

和歌界のビッグ・ダディ。『万葉集』全二十巻を編纂した大物で、業平くんと違って漢字も得意(万葉集はすべて漢字で書かれています)。愛妻家でありながら、何人もの女性との恋歌の贈答で知られる恋愛の達人。

史実では業平よりまるっと1世紀前の人。第百五段限定のスペシャルゲスト。

敏行くん(としゆきくん)

フルネーム:藤原敏行(ふじわらのとしゆき)。業平くん有常くんの高校時代のクラスメート。成績優秀で性格もいい素敵男子。
業平くんとは三十六歌仙友だちでもあり、百人一首にもなかよくいっしょに入っている。
史実および『伊勢物語』の世界観においては紀有常の娘、つまり「井筒」にあたる女性の姉妹を妻にしている。
第百七段限定のスペシャルゲストだが、素敵なのでまた出てくるかもしれない。

世阿弥さん(ぜあみさん)

世阿弥は芸名。本名:観世三郎元清(かんぜさぶろうもときよ)。
能楽を大成した天才で、自身も役者。その美貌と名演で一世を風靡。この世に心を残した美しい亡霊が出てくる「複式夢幻能」というスタイルを確立した。
ついでだけど「序破急」という作劇法を考えたのも彼。これは本来ダンスのテンポ感を表したものなので、小説を書くときなんかにむやみに応用しないほうがいい(本人談)。
業平くんの大ファン。
史実では業平よりまるっと五世紀半後の人。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み