戦闘後の市場

文字数 4,169文字

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 北トレブレン西部の〈流星地区〉にはまだ市民の動きが見られた。地球人統治時代に建てられ、言語生命体の自治が始まっても破壊されなかった広い邸宅が、この地区の中心部に肩を並べている。それらの邸宅を取り巻くように、文明退化の深度が浅かった時代の実業家たちの屋敷が点在する。時代の流れとともに、それらの屋敷は事業の失敗によって人手に渡ったり、神官連中に目をつけられて退化対象技術品押収の名目のもと奪い取られたり、公共事業に転用されていった。富裕者たちが立ち退いた屋敷と屋敷の間を縫うように、次の世代の実業家たちが、今では退化させられてしまった技術によって豪奢な家々を建てた。彼らに雇われる弁護士や会計士が続いて地区に住み着き、事務員、肉体労働者たちの住居が地区の隙間を埋めるように作られた。最後に残った隙間は日雇い労働者と労働斡旋業者たちが埋めた。こうして流星地区は豪奢な邸宅とバラック、着飾った上品な金持ちと喧嘩っ早く目つきの悪い労働者たちが混在する混沌たる地区となった。
「黒はないよ! 売り切れだよ!」
 混雑した通りに子供の売り子の声が響く。人の流れはその声に吸い寄せられていた。
「はーい! 在庫大放出! 生産は昨日で終わったよ! ある分で最後だよ!」
 人に流され、リージェスは声の出所にたどり着いた。首を伸ばして人々の肩越しに見ると、そこは織物の店で、露台に裁断されていない厚い布地が積み上げられていた。
 人々は、太陽光を遮って暮らせば黎明と真昼を生き延びられるという幻想を抱えている。ないほうがマシな、残酷な希望だとリージェスは思う。例えばリレーネが言うような、消えていく太陽を追う戦い、「消えゆく物を求める戦い」であればこんな希望が生まれる余地はなかっただろう。だが違う。夜の王国の戦いは、「来る物を避ける戦い」だ。夜の王国の陸地を捨て去らずして、太陽光を避けての暮らしは続けられない。リージェスにとってそれは疑う余地のない事実だった。アースフィアはこれから六年の夏だ。暑い、暗い色の布で覆われた家の中で日光を避けたとして、その生活を何年続けられる? 昼がいつまで続くかなど誰にも予測できやしない。食料の生産はどうする? 水の確保は? 家々や街の衛生設備の維持は?
「はい! どうもありがとう! えー……黒はないよ!」
 リレーネの手首を掴んだまま、ようよう角を曲がって路地に入りこんだ。路地ではリンゴの箱に香辛料やドライフルーツを乗せた老人たちの露天が並んでおり、そこにも通りほどではないが、そこそこ客がいた。いつ終わるとも知れぬ太陽の季節をやり過ごせると考えるのは、確かに逃げだろう。だが流星地区の市場には、富める者も貧しい者も協力しようというかつてない一体感と前向きさがあった。人混みを抜けたので、リレーネの手を離してやる。リージェスは路地を歩きながら露天を注視した。ありとあらゆる食料品が戦争によって高騰する中、市の食料品は比較的安値を保っていた。貯めこんだところで新総督軍に徴発されるだけだから、今の内に売り捌こうという構えだ。恐らく……新総督軍は徴発とインフレーションによって自分の領民を大量に餓死させるだろう。彼らが買いこんだ食料をうまく隠し仰せるかわからない。リージェスは彼らの運命を祈った。
 ところで、自分たちの腹についても心配しなければならない。特に何の訓練も積んでいないリレーネは、空腹その他のストレスに自分よりもずっと弱いはずだ。
「リレーネ」
 返事がない。
 くるりと振り向く。
 リレーネはリージェスの背後から姿を消していた。
 リージェスの心臓は激しく脈打ち、顔がさっと赤くなる。続いて息が震え、身震いした。散在する人々に素早く目を走らせると、リレーネは少し前に通り過ぎた装身具の店の前にいた。安堵でどっと汗が噴き出し早足で戻ろうとした時、中から店主と思しき中年男が出てきてリレーネを中に招じ入れた。
 リージェスは走って店に飛びこんだ。
「お目の高いお嬢さん」
 太った店主がリレーネを奥のカウンターの前に立たせ、灰色の口ひげをやたらと撫でながら、猫なで声で話しかけていた。「こちらが本物のピンクサファイアですよ、どうです?」
「何をやってるんだ!」
 大股に歩み寄り、二の腕を掴むと、リレーネははっとして振り返った。怒りをこめて睨みつけると、恥じらうように目を伏せた。
 店主はまるで意に介さず、左手に乗せた化粧箱入りのアクセサリーをリージェスに差し出し、見るよう促した。
「どうです、彼氏さん。一生一度は愛する女性に本物の輝きを」
「彼氏じゃない! いいから行くぞ」
「ごめんなさい、リージェスさん。つい欲しくって……」
「ね? ほら、こんなご時世だから心を癒やすものとか、支えるものが必要なんです。これはですね、西方領屈指のサファイアの鉱脈で採掘されたものでして、なんとこの大きさと照りの良さでたったの八クレスニーデル……」
「冗談じゃない。俺の給料四か月分じゃないか」
「へぇ、お客さん、クレスニー貨を月二枚ももらっておいでで」
 リージェスは苛立ちを募らせながら、胡散臭い店主に警戒心を抱いた。この男は愛想は良いが、目が笑っていない。
「特殊な技能職なんだ」
 ばつが悪くなって言い返すと、すかさず
「何の?」
「そんな事を言う必要があるか」
 背を向けた。そこでリージェスはびくりとして固まった。いつの間にかもう一人の男が、出入り口を塞ぐ形で後ろに立っていた。大柄で、逞しく、角ばった顔をしている。堅気の人間ではなさそうだ。目は鋭く、腕組みし、全身から威嚇の気を発していた。
 出入り口の横の階段から下りて来たのだろう。だが店主と言いあっている間、全く気配も足音も感じなかった。
「大体な」と、口調をがらりと変えて後ろの店主。「食い物さえ高騰してる時期に農民の娘が宝石なんか欲しがるかよ。それにあんた、目を見りゃ民間人じゃないって丸わかりだぜ?」
 リージェスは無視して店の入り口に向かい、戸口を塞ぐ男を三歩ばかりの距離を挟んで睨みつけた。
「言いがかりも甚だしいな。どいてくれ。拘束される謂れはない」
「どいてくれだと? 舐めてんのかよ。おめぇは」
「頼んで駄目なら命令しようか? どけ」
 男の眉が不穏に吊り上がり、リージェスは畳みかける。
「さっさとそこをどけ、うすのろ。俺の言ってる事が理解できないのか? デカすぎて頭に養分が回ってないんだな」
「言ってくれるじゃねえか。お前、その度胸をどこで身に着けた」
「いいからどけ。答える必要はない」
「あのな、俺はあんたに素性を聞いてるだけだ。どこから来た? 職業は? それだけでいい」
「俺が言うべき事は一つだ」リージェスは睨みつけた目をそらさず「どけ」
「いい加減にしろ!」
 ついに男が怒鳴りつけた。
「どけどけ言われてどく奴があるか! さっさと質問に答えろ、小僧! それともその両耳がお飾りだってんなら切り落として女房の首飾りにするぞ!」
「ブレイズさん!」
 少女の声が響き、男はぎょっと目を見開いて体を強張らせた。後ろからリレーネが駆けて来て、ほっそりした白い手で、男の右手を両手で包みこんだ。
「今わかりましたわ! あなた、ブレイズさんですわね? ブレイズ・アスナニ軍曹。そうですわよね?」
 男は見事に動揺し、口ごもる。図星らしい。リージェスにはわかった。リレーネは熱のこもった視線をじっと男に注ぎ、言葉を続けた。
「ええ、間違いありませんわ。以前にお会いした時から髪型と雰囲気が違っておられましたから、すぐにわかりませんでしたの。ね、ブレイズさん、あなたがここにいらっしゃるって事は、アズレラさんも近くにおいでなのでしょう?」
「はっ? 何でアズレラの事まで……前にどこかで会ったか?」
 ブレイズと呼ばれた男は動揺しながらリレーネの顔をじっと観察し、それから目を天井にそらし、何かを思い出す時の遠い目をした。
「いや、待てよ? この顔どこかで……」
 その目の横、こめかみに、跳躍したリージェスの足の甲が直撃した。作業用の鉄板入りの靴越しに、たまらず男が脱力するのをリージェスは感じた。両足を床につけて着地し、リレーネの手首を掴む。
 男を押して突き飛ばし、店の外へと逃げ出した。
 すぐに店主が飛び出してきたが、その時にはもう道を突っ切って向かいの集合住宅の陰に回り、壊れかけた階段を上がって姿を隠していた。もちろん右手にリレーネを捕まえたまま。住宅の共用廊下を駆け抜け、その突き当りから平屋根に飛び降りる。そしてまた路地に降りた。リレーネにも低い屋根から飛び降りさせる。無人の工業地区まではもうすぐそこだ。
 舗装されていない雑草だらけの道で、走りながらリレーネが小さな声を上げた。
「待って、リージェスさん、お待ちになって……あの方は敵ではありませんわ」
「敵かどうかは俺が判断する」リージェスは苛立ちながら答えた。「あの男は誰だ? 何故知っていた?」
「あの方とは太陽の王国で――」
「もういい。聞いた俺が馬鹿だった」
 慌てて、しかしゆっくりと遮る。そのうんざりした口調に後ろのリレーネも口を閉ざした。だが暫くするとひどく傷ついた口調でまた話しかけてきた。
「わかりました。どうしても信じて下さらないのなら、私もう言いませんわ」
「どうして信じると思ったんだ! 本当の事を正直に言えばいいだけの話だろう!」
 二人の頭の上を、風を切って掠めるものがあった。リージェスは素早く目線を上げた。
 弩の矢が、民家の樹木に刺さった。
 リージェスはリレーネの手をしっかり 掴んだまま、慌てて入り組んだ住宅地の角を曲がった。
 そこに、あのブレイズとかいう男が立って、行く手を塞いでいた。
 振り向くまでもなく、音と気配で、退路を閉ざされたのが分かった。
 背後に立つ人物が言う。
「全く……妊婦に手間かけさせんじゃないよ」
 その、全く場にそぐわない女性的な単語に動揺し、リージェスの気が逸れた。すかさず男の手が伸びて、リージェスの首の神経を、太い指で押さえた。
「小僧、さっきのお返しだ」


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