出陣

文字数 4,334文字

 ※

 リージェスが眠りに落ちるまで、隣のリレーネの部屋からは物音一つ聞こえなかった。リージェスは夢も見ずに寝ていたが、誰かが戸を叩き、反射的に目を開けた。
「誰だ?」
 戸が開き、リージェスは戸口のカンテラの光に目を細める。瞬きを繰り返す内、カンテラの持ち主の顔を判別できるようになった。
 チェルナー中将だ。
 リージェスは飛び起きた。
「師団長殿! 無礼をお許しください。直々にお越しいただけるとは」
 室内履きに足を突っこみ、寝癖だらけの髪を慌てて指で撫でつける。中将は二人の護衛を廊下に残し、部屋に入ってきた。だが戸は閉めない。
「今すぐ、直接話さなくてはいけなくてね」
「お聞かせください」
「あとおおよそ五時間で、北トレブレンを出た連合軍が第六大橋に到着する」
 北部から中トレブレンへの唯一の渡河点だ。
 リージェスは生唾を呑んだ。
「これ以上君たちをここに留めておくことはできない。来なさい」
 チェルナー中将はマントを翻す。リレーネの部屋に行った。彼女は椅子にかけたまま眠っていたが、ドアを開けるとすぐに目を覚ました。
「中将殿」どこへ連れて行かれるのかわからぬまま、早足の中将と小走りのリレーネの間でリージェスは小声で尋ねた。
「第三軍団は、どうされるのですか?」
「北トレブレンにて奪われた日程を中トレブレンで取り戻す。本来ならばあの街には十日以上留まっていなければならなかった。都の疎開が完了していない以上、トレブレン地方を連中に通過させるわけにはいかん」歩く速度と裏腹に、チェルナー中将は落ち着いた口調でゆっくり話し、威厳を保った。「第三軍団は南トレブレンを拠点とする第一軍団と共に、中トレブレンからの退路を守る。いかに難攻不落の中トレブレンとはいえ、第二軍団を内部に取り残していくわけにはいかないからな。その後は第二軍と合流し、交代だ。シオネビュラ方面に回されることになりだろう。それと」
 リージェスはリレーネを伺いながら足を早め、中将との距離を詰めた。
「未確認情報だが、北トレブレンで市民の処刑が起きたそうだ」
 中将とほぼ横並びになる。
「何故……そのような……」
「北トレブレンに逃げこんだ要人の捜索に非協力的な態度を示したからだそうだ。手を下したのは南東領ソレスタス神官団だ」
 その要人というのが誰であるかは、聞くまでもないことだ。
「覚えておきたまえ。君は今回のようにいつでも援助を得られるわけではない。以降は誰も信用しないでリリクレスト嬢を守るんだ」
 まっすぐに延びる軍用道路を、五列縦隊の第二軍団の兵士たちが行進していく。送り出す市民たちも、花吹雪も、軍楽隊の演奏もない。支給品の簡素な兜だけが、松明を照り返し、銀色に輝いている。
 リレーネはリージェスの後ろで、バービカンで会った兵士たちがいないか探したが、見つけだすには兵士の数は多すぎた。
 軍用道路から離れた小さな河港に、リレーネとリージェスは連れて行かれた。第二師団本部の所属と見られる兵士が二人、河岸に立っている。
「それかね」
 と、水面に浮く一艘の小舟を顎で指し、中将。兵士が答える。
「はっ。整っております」
「乗りたまえ」
 リージェスに向けて言った。
「君たちが通過するまで南の鎖状障壁が開放される。この早さなら、水の流れに任せていれば二時間で分かれ道に出るだろう。分岐はそこだけだ。右に進みたまえ。左に進んだら、そのままシオネビュラまで行ってしまうからな」
 早さを重視した、細長い連絡用の小舟だ。二人が乗りこみ、リージェスが櫂を取ると、縄が外された。
 小舟がするりと水面を滑り始めた。
 チェルナー中将が片手を上げる。
「生き延びたまえよ、メリルクロウ少尉」
 リージェスは敬礼を返した。
 階級や、立場、個人的な好悪とは別に、軍に属する人間の間には戦士としての特別なつながりがある。嫌っているチェルナー中将に対してさえ、リージェスは絆を感じた。
「ご武運をお祈りします、チェルナー中将」
 河港で見送るチェルナー中将の姿が小さくなり、影となった建物群に紛れ見えなくなる。中トレブレン母市と副市の間の河を、船は流れていく。
「ご無事で……生きてくださるといいですわね。みなさん」
 きれいごとではない。リージェスも同感だった。中トレブレンが遠ざかるにつれ城塞都市の輪郭はぼやけていき、岩のようになり、石のようになり、高い尖塔の先が点のように見えるだけとなり、やがて川面の向こうに消えた。
「みなさん、ご無事で――いいえ」リレーネが言葉をやめるので、リージェスは舳先から振り向いた。リレーネはつらそうに目を閉じた。「私の言葉は、軽い……」
 小舟を漕ぐ必要はしばらくなさそうだった。
 二人とも黙った。
 川は山地に入っており、天を仰げば真っ黒い山と山の間に天球儀の白い編み目と星々が見えた。
 リージェスは着たきりの上衣を脱いだ。薄汚れた作業服を川の流れに浸す。揉まなくても、船の進む速度が汚れを洗い落とすだろうと思った。
 視線を感じた。
 リレーネが、背中に視線を注いでいた。
「そういえば」リージェスは気まずさと気恥ずかしさを感じた。「火傷の痕がどうのと言っていたな。肩口に。初めて会った時」
「本当に、ございませんのね」
「どうしてあると思ったんだ」
「あなたがアークライト家を出る時につけられた傷だから」暗くとも、リレーネの瞳に湛えられた悲しみを見逃すはずがなかった。彼女は感情を押し殺し、慎重に言葉を選んでいる。その震える波動が伝わってきた。
 リージェスは遮ろうと思わなかった。疲れて面倒なのと、リレーネがあまりに真剣なのと、あろうことか話に興味を持ち始めている自分に気付いたからだ。少なくとも、聞けば、彼女が自分を知っている理由の手がかりくらいはあると思った。
 だがリレーネはなかなか話しださなかった。
 次に彼女が口を開いた時、出てきたのは質問だった。
「あなたはどのように、アークライト家を出られましたの?」
 リージェスは服を引き上げ、堅く絞る。
「面倒くさいから正直に話す。まあ、あんたの話ほど荒唐無稽じゃない」
 服を着た。冷たさは苦にならない。寝転がって星を眺め、眠りに落ちたかった。
「あんたが言ったことは事実だ。俺が北方領の都の評議会議長の息子だってことは」
 だが、生憎雲がかかり始めていた。
「十二の時、俺は父親に総督公邸に連れて行かれた。挨拶のためにと言われて。庭園を歩いてた。公邸の……。そしたら声がした」
「声?」
「若い女の声だった。行っては駄目って。泣き叫ぶような感じで、何度も俺を呼んで……」
 リレーネの瞳の中を、星が流れ落ちた。
「あんまり真剣だったから、俺は立ち止まって誰が呼んでるか探した。父親は前を歩いて、聞こえていないようで」
「何て?」
「何?」
「何て、仰いましたの、今? その声が何と叫んだと仰いました?」
「リージェスさん、行っては駄目、と言ったんだ」
「それから?」リレーネの体が震えた。自分の二の腕を抱き、目と声に熱がこもる。「それから? それから?」
「父親を放っておいて、こっそり声がした枝道に入った」
「どうして」
「忘れた。でもその時はそうするべきだと思ったんだ」
 リレーネはまた、「それから?」
「そしたら、その先で……小さなあずま屋で、付き添いで来てた乳母が泣いていた。赤子の時から俺を育てた人だった」リレーネは深く頷く。「……何故泣いているのか尋ねた。そしたら何も言わなくて……俺の手を引いて、逃げ出した……」
「あなたは!」小舟を揺らし、リレーネが膝立ちになる。「あなたはお父上に……売られ……」
「知っている。後で知った。転々として、メリルクロウ家に匿われた後で……。慈善事業だとさ。わけありの金持や貴族の子供を引き取って――」
「私は叫んだ!」
 リレーネの声が、リージェスの言葉を打ち消した。その声の力強さに、リージェスは思考を止める。リレーネは両腕で顔面を覆い、頭のてっぺんに爪を立てた。
「叫んだ、叫んだ! 何度でも! 私はあなたに守られていた、助けられましたわ、何度も。私は、たった一度、一度だけでいい……」手を下ろし、今度は伏せた顔に爪を立てる。「守られ続けたこの身で、あなたを守ることができるなら、助けることができるなら……」
 嗚咽に声がかき消される。それでもリレーネは言葉をやめなかった。
「できるなら、命尽きても構わないと……」
 指が、額から頬に下り、両目が見えた。リレーネの涙が雲の光を反射していた。
「みんな、死んでしまい――」唇を噛んだ。「――私は月を作った……生きるために……。そうして、月の中に、入っていきました。月の中にみんながいて、そしてあなたが……」
 あなたを、と言う。声の震えが大きくなる。
 リレーネは声を振り絞り、叫んだ。
「守ることができた!」
 膝立ちの姿勢で、リレーネは大きく背中を倒した。髪で顔を隠す。涙で濡れた手が、リージェスの右手を捕らえた。高い声で、リレーネが叫んだ。リージェスの目も憚らず号泣する。
 彼女はリージェスの右手を引き寄せ、泣きながら頬ずりした。
 温かかった。涙が。頬が。
「行かなくてよかった」
 つっかえながら、リレーネは喋った。
「あなたが……その道を……行かなくて……本当に……」
 いよいよこの娘は頭がおかしいのかもしれないと、リージェスは思った。だが出会った時の不快感はなかった。
 彼女は真実を語っている。少なくとも本人が真実であると信じることを。それがわかったからだ。
 リージェスは、人を慰めるやり方を知らなかった。
 雨が降り始めた。上衣を脱いでかけてやろうかと思ったが、洗ったばかりでずぶ濡れだった。
 リレーネは泣き続けた。リージェスはふと、優しい気持ちがこみ上げるのを感じ困惑した。
 雨が二人を包みこんだ。
 たちまち豪雨となる。
 荒れる川が小舟を押し流し始めた。二人はそれぞれ涙も優しい気持ちも棚上げした。リレーネは舟の縁にしがみつき、リージェスは櫂を漕ぐが、川中の岩に当たり、櫂を失う。
 行く手で川が二手に分かれるのが、雨の幕の向こうに見えた。
 右に行かなければならない。
 櫂がない。
 正面には三角に切り立った川中の島がそびえ立ち、岩とその上の黒い木々が、二人に恐怖を与えた。
 リージェスとリレーネは、それぞれ恐怖の声を発した。
 ぶつかる直前、舟は左へ……都から遙かに遠いシオネビュラ方面へ逸れ、突き進んでいった。


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