市街乱戦

文字数 9,045文字

 ※

 マグダリス・ヨリス少佐は船ほどの大きさのある捕食者を相手に善戦しているようだった。だが、その戦いがどのように行われているかは誰の目にも見えなかった。捕食者の体の表面を覆ういくつもの顔が、人の声や、獣の声で、悲鳴をあげるのがわかるだけだった。レナ・スノーフレークが副官を務める南部ルナリア独立騎兵大隊は、比較的安全と思われる地点から、広がる屋根の波の向こうに捕食者の影を見ていた。
「強攻大隊のヨリス少佐って、有名な人だよな」
 士官の一人が憂鬱な調子で漏らした。
「憧れてる人がたくさんいた……敵に回って、強攻大隊と戦いたくないって声はたくさん聞いたけど、こんな……」
 聞き手の下士官は、もう何も考えたくないという目で「はい」と相槌を打った。
「……こんな死に方をさせられるなんてな」
 誰もヨリスが勝つとは思っていなかった。人間一人が相手取るには捕食者はあまりに大きくて、ヨリスとヨリスの剣は小さく、彼は捕食者を切り刻むが、その行為は際限なく行われなければならぬように思われた。一方、捕食者の攻撃が一度でも直撃すれば、彼は一巻の終わりだった。
 捕食者がいくつもある尾の一つを振り回した。棘のある尾だった。近くの建物の一階部分に当たり、四階建てのその建物は、自ら巻き上げる土埃の中へと、轟音と共に沈んだ。ヨリスは倒壊地点にいるはずだが、その姿は誰にも見えなかった。捕食者は暴れ続けた。それはヨリスを仕留め損ねたからなのか、ただ度を失っているだけなのか、レナでさえ判別がつかなかった。街灯が薙ぎ倒され、瓦礫で道が埋まる。その上を、何を思ってか、捕食者が数え切れぬ足を用いて一直線に走り始めた。蛸、百足、牛、狼、人、あらゆる種類の足が血を流す。捕食者の進行方向にいる兵士らが、悲鳴を上げて逃げ出した。彼らを統率する指揮官はいないか、いても入り組んだ市街地では思うように統率できないか、または兵士たちの恐怖と混乱が指揮官への服従を拒んでいた。
 西神殿周縁は、代々シオネビュラ神官団三位神官将の管轄であった。三位神官将ニコシア・コールディーはシグレイの反乱政府から派遣されてきた調査団による古農場調査に立ち会っていたが、反乱軍・連合軍の受け入れ日にあわせて帰還を果たしていた。彼女は本殿で待つ正位神官将に帰還の報告をする間もなく、西神殿に駆けつけなければならなかった。
 西神殿を囲む城壁を潜るとき、小塔にたたずむ人の姿を跳ね橋の上から見た。
「上にいるのは誰だ」
 門を守る神官兵に尋ねた。民兵団からかり出された者ではなく、正規の神官だ。彼は礼儀正しく手短かに答えた。
「メイファ・アルドロス二位神官将補殿でございます」
 ニコシアは舌打ちし、三位神官将補を従えて、城門内部の階段を駆け上がった。足許を十分に照らす蝋燭の光と熱気を浴び、武器を振り回しながら撤退できるよう、手すりが逆についた階段を駆けあがり、城壁の上、天球儀の光と夜に染められた天蓋の下に飛び出した。その夜の色合いは、澄んだ藍色に和らぎ始めていた。
「アルドロス二位神官将補!」小塔にたどり着いたニコシアの声には、憎しみさえ感じられた。「貴様は何をのほほんと見物している。何故止めにいかない!」
「あら、三位神官将殿」メイファは髪を揺らして振り返り、爽やかに答えた。「今ちょうど、正位神官将補殿と本殿の部隊が市民を避難させていますよ。もともとあそこは市民を退去させた区画です。ご心配なく」
「正位神官将殿もお越しか」
「かねてより観戦をご希望でしたので」
 怒りで顔を歪ませながら、ニコシアは舌打ちした。
「ジェイル!」
「はっ」三位神官将補が応じる。
「槍をもて。直接止めにいく」
 ミオン・ジェイル三位神官将補は、如何にも優等生然とした佇まいの青年だった。ニコシアが大股で、しかし小柄な体格のせいでさほど早くはならない歩みで立ち去ると、メイファに形ばかりの礼をしてから、別の通路を使って城壁を下りた。
 ニコシアは、下りたままの跳ね橋の上をせかせかと歩いた。
「三位神官将殿!」
 水が黒く揺らめく堀を越え、疲れ果ててなお馬具を外してもらえないかわいそうな馬に跨ると、ジェイルが追いついてきた。二本の槍、ニコシアのものと自分のものを携え、騎馬の護衛を十人ほど後ろに連れていた。
「よくそんなに連れてくる気になったな」
「人選に時間はかけられませんので。全員、同行を志願しております」
 ニコシアは槍を取った。
「お前たち! あのゲテモノの化生がどういうものかはわかっているな!」
 馬上で振り向くニコシアに、神官兵たちが声をそろえる。
「はい、三位神官将殿!」
「なら余計なことは言わない! 食われて奴に養分をくれてやるような間違いは犯すな! 以上!」
 西神殿前の市街地へと繰り出すニコシアに、補佐官と護衛たちが従う。
 破壊された区画に、強攻大隊の兵士と将校が集いつつあった。捕食者の恐怖から逃れんとする連合軍兵士たちの流れをかき分け、連合軍の宿営地へ食いこみ、捕食者の丸い背を追いかけて、自分たちの指揮官を捜した。強攻大隊の将兵だけがヨリスを信じていた。
「あそこだ!」
 太い男の声が叫んだ。割れた壁、斜めに倒れかかる街灯、横倒しになった馬車、そうしたものに手をかけ足をかけ、乗り越えながら、兵士の一人が空中を指す。
 破壊されていない建物の屋上から、黒い人影が跳んだ。影は、捕食者の盛り上がった背に跳び移り、不気味な凹凸の中に消えた。捕食者がのたうつと、再び凹凸の中から跳びだして、別の建物に跳び移る。
 兵士たちが歓声をあげた。
「お前たち、鎮まれ!」
 中隊長の腕章をつけた女性将校が、彼らに声を張り上げた。
「興奮するな! 決闘を挑まれた士官以外剣を抜くな!」
 だが、兵士たちはすぐにでもヨリスの援護に駆けつけたい様子だった。何割かの兵士は弩を携えていた。小隊長と中隊長を奪われた弓射中隊の兵士たちだ。
 彼らの前に、一人の若い小隊長が躍り出た。中尉の階級章をつけており、お祭り好きそうで、この騒動に目を輝かせていた。
「はい! 注目注目ー!」
 手を叩き、両腕をあげて大きく振る。誰かが痛ましささえ感じられる声で、小隊長に叫んだ。
「リッカード中尉!」
 大隊長を想えば、今すぐ剣を抜きたくて仕方がないのだ。
「いいか! 今から俺たちは大隊長殿を援護する! そして難民区画から連合軍どもを一掃する! だが! 武器を抜くことは許さん! じゃあどうするか? わかってるな!」
 まだ余裕を保っている兵士たちが、くすくす笑いで応じた。リッカード中尉はすっかり埃っぽくなった空気を吸い、胸を張り命じた。
「歌え! 歌いながらすすめ! 連合軍の奴らに強攻大隊の将兵がどういうものか見せつけてやれ!」
 瓦礫の山を兵士たちとは反対方向に飛び降りて、彼は声を張り上げた。
「それでは最初に! 強攻大隊のうた非公式バージョン一番!」
 兵士たちは歌い始めた。歌は兵士から兵士へ伝達し、破壊の騒音にも負けない大合唱となった。
 彼らは合唱しながら、多くの連合軍兵士が固守する区画へと乗りこんでいく。

「我ら名誉の盃あおり
 泥と勝利の星を追う
 苦行の教練もそのためさ
 おお我らが強攻大隊
 盗聴と覗きの伏魔殿」

「どういう隊歌だ!」
 その歌は、南部ルナリア独立騎兵大隊の宿営地へと乗りこむべく道を急ぐニコシアの耳にも聞こえた。彼女たちは戦闘が行われる区画に、既に入りこんでいた。
「それでは続けてぇ!」と叫ぶリッカード中尉の後ろを通り抜けながら、彼らが剣を抜いていないことをニコシアはしっかり確かめた。
「俺たちの大隊長、マグダリス・ヨリス少佐のうた!」
 彼らは歌で高揚していたが、シオネビュラ神官団の兵装の一団に道をあける分別をとどめていた。

「人の人たるかぎり超え
 闇を切り裂くその心
 戦士の魂を守護し給われ
 閃光 黒曜石の星よ」

 薙ぎ倒されて斜めになった樹木を、腰を屈めて潜る。向こうから、三人の連合軍兵士が泡をくって逃げてくる。彼らの後には走りながら歌う強攻大隊兵士二人が続き、まるで歌の力で追い払っているかのように見えた。
「次ぃ! 弓射中隊ユヴェンサ・チェルナー上級大尉のうた!」
 リッカード中尉の声で、彼に続く兵士らが歌を変えた。呼応するように、それぞれの筋に散った兵士たちが、同じ歌を歌いだす。

「裂け 古い嘆きの常闇を
 開け 恵みなき漆黒を
 灰より生まる不死鳥の
 永遠(とわ)を与うる 光が如く」

 その頃ユヴェンサたちは、立てこもった家の屋根の上に出て、遠く見える捕食者とヨリスの影に目を凝らしていた。王領軍兵士たちは、とうの昔に逃げていた。
「すぐに戻って戦闘しましょう。兵士たちは近くに来ているかしら」
 アイオラが早口に囁いた。ユヴェンサは祈るような目で影を凝視し、動かない。ヴァンが泣きそうな声で促した。
「チェルナー上級大尉、助けにいきましょうよ」
 だがユヴェンサの返事は「駄目だ」首を横に振る。「指揮官の決闘に手を出すな」
「決闘? あんなのが決闘ですか! 間違ってますよ!」
 アウィンが唾を飛ばす。
「決闘だったら指揮官同士で行われるべきですよ! なんですか、あの化け物! それとも連合軍のどっかの部隊は化け物が指揮官なんですか!」
「うるさいぞ!」
 ユヴェンサが一喝する。
 だが、彼女はその間も、決して戦いから目をそらさなかった。
 一番ヨリスのもとへと駆けつけたいのは、ほかならぬユヴェンサだった。
 彼女は押し殺した声で部下を宥めた。
「ヨリス少佐を信じるんだ」
「次ぃ!」リッカード中尉は喉が荒れ、声ががらがらになり始めていたが、歌をやめる意思はなかった。「第二中隊隊長、シン・アルネーブ中尉のうた!」合唱が続く。「俺はもらいゲロ大魔王 今日も今日とてもらいゲロ……」
「なんだその歌は!」ニコシアは、剣を振り回して正面から駆けてくる連合軍兵士の頭に槍を叩きつけて気絶させた。

「俺はもらいゲロ大魔王
 今日も今日とてもらいゲロ
 新兵が吐いちゃゲロゲロゲ
 酔ってなくてもゲロゲロゲ」

「前の二人と全然違うじゃないか! いじめか!」
「ちゃんと指揮官の個性に合わせた歌になっているようですね」
 別の兵士との格闘を終わらせたジェイルが冷静にフォローし、フォローしてからフォローする必要は何一つなかったことに気付いた。
「決闘だ、決闘だ!」
 強攻大隊の兵士が多く集う場所に、一人の一等兵が飛び込んできた。「ユン上級大尉が決闘を挑まれたぞ!」
「よし!」リッカード中尉は腕を振る。「次! 大隊副長、第一中隊隊長ウェン・ユン上級大尉のうた!」合唱が始まった。「チンチンびろびろチンびろりーん!」
「どういう中隊長だ!」

「チンチンびろびろチンびろりーん
 強い男に憧れて 士官の道に身を投ぐも
 酔うと全裸になるせいで 寄りつく女性ありやなし
 ああ、その名はウェン・ユン 婚期逃してもう三十路」

 そこから少し離れた場所で、決闘相手の体から剣を引き抜きながら、三十歳のユン上級大尉が低く呟いた。
「後で思い知らせてやる」
 彼の勝利の報がもたらされると、リッカード中尉は息を切らしながらなお次の指示を出した。
「続けて! 第三中隊リーン・イマエダ大尉のうた!」合唱。「おとぎの国からやってきた お花の精の王女さま」
「そんなわけが――」ニコシアは、道にあふれた豚や鶏を押しのけて進んでいた。「あるかぁっ!」その声に怯え、豚も鶏も一斉に逃げていった。

「おとぎの国からやってきた お花の精の王女さま
 今日も小鳥といずみで遊び
 おやつのミルフィーユくださいな
 くれなきゃ八つ裂きグロテスク」

 女性の中隊長は、薄笑いを浮かべて頭を振った。
「それ、お酒の席でふざけて一度言っただけなんだけど……」
「一度でも言ったらおしまいなんですよ……」
 強攻大隊に十年身を置く下士官が、しみじみと呟いた。
 ヨリスは執拗に背中だけを狙って、捕食者に攻撃を続けていた。捕食者の前後及び側面は、虫やら甲殻類の体で補強されており、剣での攻撃は通りそうにない上に、もっとも攻撃が激しく繰り出される箇所だった。だが、いかに巨大な体つきをしているとはいえ、体のどこかに全ての部位を統括する器官があるはずで、それは最も人間に攻撃しにくい部分にあるだろうと考えた末、背中、つまり盛り上がった体のてっぺんを攻撃するがよかろうと結論したのだ。
 これが言語崩壊を起こした生物の寄せ集め、つまり人為的に造られた化生であることは、一目見ればわかる。自ら化生となったダリル・キャトリンは、北トレブレンの戦いで傷ついたのち、自分の大隊の兵士の死体を食っていた。そうして言語子を補給しなければ体の修復ができないのは、化生である以上、眼前の化け物も同じだろう。そう考えれば見た目以上の脅威はないはずだった。
「殺して――」
 ヨリスは投げ捨てられた槍を手にしていた。その槍で裂傷だらけになった背中を何度も突き刺しながら、もう幾度めかわからぬ哀願が、埋めこまれた人間の顔から放たれるのを聞いた。
「殺して――お願い――」
 捕食者が身震いする。一暴れくる気配を感じ、ヨリスは槍を突き刺したまま背中から飛び降り、捕食者の体の側面を蹴って近くの建物に飛び降りた。
 建物の裏手には外階段が取り付けられていた。外階段を駆け折り、背の低い民家の屋根に飛び降りる。直後、先ほど飛び移った背の高い建物が背後で破壊された。ヨリスは民家の屋根から飛び降りて、民家を飛散する瓦礫の盾代わりにした。
 下りた先に、右の耳たぶのない、新総督軍の将校がいた。目が合った。ヨリスもまた、その男の右の耳たぶをめぐる顛末を覚えていた。サーベルを抜く。将校はひぃ、と声を上げた。そして恥も外聞もなく、ヨリスから逃げ遠ざかっていった。
 ヨリスは投げ捨てられた連弩を見つけた。壊れていなかった。建物の間から左腕を突き出し、連射する。三本は固い甲殻に弾かれたが、残る七本はその奥の、柔らかい部分に刺さった。捕食者は北へ這いずっていく。かなり動きが鈍ってきている。ヨリスは先回りして走る。修道会館にたどり着き、飛びこみ、鐘つき塔を駆けあがり、そこから化生の背中めがけて飛び降りた。
 空中で、ヨリスを払い落とさんと、無数にあるクラゲの触手の一つが鞭のように空を切った。トカゲの尾が振り上げられ、鐘つき塔の根元を打ち壊す。
 肉の体で戦えば、負傷もするし、疲弊する。
 人を超えた戦いを行うなら、人を超えなければならない。
 ヨリスは没我の状態に陥った。視界が灰色に染まり、耳が音を失う。封じこめた記憶の断片が、無意識の底からわき上がる。ヨリスの体は戦の神のものになる。自我はほぼ消え、眠っているのと同じ状態に陥る。夢を見ている心地で、思考はなく、皮膚感覚は研ぎ澄まされ、ただ反射だけで動いていた。集中を極めた状態の中にあれば、眠りこそが覚醒なのだ。
「リレーネ!」リージェスは、ヨリスと同じ区画にいた。「リレーネ!」騒音と歌声の中で声を張り上げる。化生が暴れた後の街路は瓦礫で埋まり、多くの道が通行不能となっていた。リージェスは一瞬、大通り沿いのまだ無事な建物を挟んだ向こうの道に、リレーネの姿を垣間見た。燕脂色の軍服を着た兵士に付き添われ、逃げていた。反乱軍の兵士だと思いたかった。だが新総督軍の兵士だったら――。「リレーネ!」
 声は届かなかった。後を追い、路地へ飛びこむ。
「お前! 何をしている!」
 背後から声をかけられた。振り返る。新総督軍の兵士が三人、駆けてくる。
「ここは連合軍の宿営地だ! 民間人は出ていけ!」
 この兵士たちを引き連れた状態でリレーネを追いたくはなかった。駆けてくる兵士たちと自分との間に、ニコシアに殴られた兵士がのびていた。リージェスは駆け寄り、のびている兵士の剣を拾い上げた。それを受け、兵士たちも剣を抜いた。道はかなり狭く、彼らはほぼ一列になって駆けてくる。
 リージェスと一人目の兵士が、片手剣をぶつけ合わせた。剣戟(けんげき)の音が響き、青白い火花が散る。二人は交差させた剣を挟んで睨み合った。敵は、ただの民間人と思われたリージェスが剣の扱いに慣れているのを感じ取り、驚いた様子だった。一気に押し込んでくる。その力を、リージェスは剣を後ろに倒し、受け流した。柄を握った右手を、敵兵の手より高く上げて、兵士の手の甲を柄頭で強く叩いた。兵士の剣の刃が下に向いた。リージェスはすかさず踏みこんで、剣の柄で兵士の顎を殴りつけた。
 二人目の兵士は、予想外の展開に呆然とした顔を見せた。それを後ろから腕で押し退けて、三人目の、二人目よりは年長の兵士が前に出た。
 出るなり、頭の上に振り上げた剣を半円を描いて振り下ろした。リージェスは右腕を上げ、剣の柄を頭上に、切っ先を左足に向ける、刀身を胸の前で斜めにする構えをとった。その構えで剣を受けながら、右腕を下ろす。三人目の兵士の剣はリージェスの剣の刀身を滑り、リージェスの左足の爪先まで誘導された。リージェスは剣を上げ、刃が触れあった状態を解くと、剣の峰で三人目の兵士のこめかみを打った。気絶し、倒れ込むのを見届けると、戦意を喪失した二人目の兵に背を向けて、リレーネを追いかけた。
 リレーネにはリージェスの呼び声は聞こえていなかった。
「駄目だ! この道も通れない!」
 大量の瓦礫で埋まった路地で、護衛兵士の一人が声を上げた。別の兵士が答えた。
「待て。隣の建物、長いぞ。中に入れば瓦礫の向こう側まで通じているかもしれない」
 そこへ、慌ただしい足音と、誰かを追い立てる声が迫ってきた。
「そっちへ行ったぞ! 捕まえろ!」
 そして、リレーネたちの前に姿を現した。
 新総督軍の兵士たちだった。五人組だ。剣を抜いている。それを見て、護衛兵士たちも自分の剣を抜いた。新総督軍の兵士たちはリージェスを追っていたのだ。だが護衛兵士たちは、自分たちが追われていると咄嗟に思った。
 彼らが剣を抜くのを見て、新総督軍の兵士たちも、自分たちが襲われると思った。数の利は彼らのほうにあった。
「お嬢さん――」
「大丈夫です」リレーネは声の震えを殺した。「一人で行けますわ」
「どうぞ、お隠れください……すぐに片付け、追いつきますので」
 頷いたリレーネが長く延びる建物の扉に消えると、その扉を背後に庇い、三人の護衛兵士は横一列に展開した。
「気をつけろ! あの男、士官の剣技を使いやがるぞ! ただの難民じゃない!」
 どこかで別の声が叫ぶ。迫る戦いのために、護衛兵士たちは三人が三人、異なる構えをとった。
「止まれ!」
 駆けてくる五人の敵兵の後ろから、別の男が声をかけた。敵兵たちの動きが止まる。
 行く手に見えるのが強攻大隊の護衛兵士であると見て取った、リージェスの声だった。
「お前たちの相手は俺だ」
 彼らはたじろぎ、四人が護衛兵士たちに、一人がリージェスに戦いを挑んだ。
 リージェスの首筋めがけて、剣が頭上から振り下ろされた。リージェスは右足を踏みこみ、下から剣を斬り上げる。自分の剣の中心を、敵兵の剣の中心に当てた。
 束の間の硬直。
 リージェスは更に右足を踏み込みながら、右腕と剣の高さを変えずに体を沈め、左膝を地につけた。腕の高さを保ったまま、切っ先を下向きに変え、深すぎず、そして浅すぎないように、へその真上を突き刺した。そのまま脇腹へと裂く。
 三人の護衛兵たちは、残る四人を皆殺しにしていた。
「メリルクロウ少尉ではありませんか」
 見知った兵士にリージェスはぼやいた。
「生かしておけば他の追っ手との交渉に使えるのに」
「交渉に五人も必要ありません、少尉殿。それより」
 リージェスはそれを遮った。
「リリクレスト嬢はどこだ?」
 リレーネは倉庫として使われている長い建物を抜けていた。扉を開けて飛び出した先は、難民区画と連合軍宿営地を隔てる大通りだった。そこで人と鉢合わせたので心身共に身構えた。そこにいたのは、安心できる相手だった。
「ギゼルさん!」
「お嬢ちゃんじゃねえか! 何でこんなところに!」
「私――」
 言い差しのリレーネの二の腕をつかみ、難民区画へと走らせた。
「いいからこっちに来い! みんなとっくに逃げてんだよ!」
「お待ちになって――」
 ギゼルは何も言わせずに、リレーネを西神殿の方角へと走らせた。
 未だ混乱から守られている西神殿の門前を、堀に沿ってフェン・アルドロスが歩いていた。悠然と歩む彼女へと、跳ね橋を渡って一人の女が近付いてくる。
「あら、メイファ」
 槍を携えたメイファ・アルドロスが満面の笑みとなる。
「来ると思ったわ、姉さん」
 見た目だけなら美しい姉妹は、挨拶代りの軽い抱擁を交わした。
「ねえ、私の上官がラウプトラ邸にいるんだけど、場所知らない?」
 抱擁を解くと、メイファは自分の肩越しに、親指で背後を指した。
「道はあってるわ。まっすぐ行って」
「ありがと、メイファ」
「じきじきに助けに乗りこむなんて、姉さんにしては結構な入れこみようね。そんなにイイの?」
「ええ、かなり」
 フェンがその目を覗きこむと、メイファは微笑み、肩を竦めた。
「私にはわからないね、同性は守備範囲外なの」
「ぞっこんな異性がいたじゃない。二位神官将殿とはどうなの?」
「まだ続いてるわ」
「長いわね」
「普通はそうよ。姉さんがとっかえひっかえしすぎなだけ」ぞっとするような笑みを浮かべた。「レグロは一生私の物よ。誰にもあげないわ」
 今度はフェンが肩を竦めた。
「果たして、浮気性なのとどっちがたち悪いかしらね」
 姉妹はすれ違い、別々の道を進む。フェンは化生が暴れるほうへ向かう妹を、肩越しに見送ってから、まっすぐ前を向いた。
 狩猟者フェン。
 中央司令部に勤務していた頃は、そう呼ばれ恐れられていた。今の獲物はシルヴェリアだ。横取りは許さない。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み