八月亭の騒動

文字数 10,683文字

 ※

 カルナデルはリアンセを、彼女の望む場所に連れて行った。『後ろ暗いところのある新参者やよそ者が集まりやすい酒場』。シオネビュラの非公式の出入り口である西の漁港にほど近く、客席が多く、ぱっと見の印象がきれいで、街の古強者(ふるつわもの)に絡まれる恐れの少なそうな店。カルナデルが子供の頃にルアンおばさんと呼び慕っていた孤独な女が切り盛りする〈八月亭〉はそういう店だった。だが、哀れなるかな無知なる旅人は、一歩足を踏み入れた途端に読みが外れた事を悟るのだ。
 そこでは異端宗派の勧誘が行われ、麻薬の受け渡しが行われ、毒の取引が行われる。芸術家気取りたちが大声で互いの作品を罵りあい、学者崩れが神官たちを侮辱し、喧嘩商売人が殺しの自慢をし、賭博場の元締めが借金を取り立てるべく潜伏し、娼婦たちが梅毒を隠して今夜の客を漁る。
 ルアンは太っていた。かといって貫禄があるわけでもなく、話が面白かったり頭の回転が早いという事もなく、どのような種類の強さも感じさせない人物だ。目は濁り、全てを諦めきっている。彼女がこの商売を続けられるのは、あまつさえ常連客たちから重宝されるのは、ひとえに口の固さ故だった。彼女は耳に入った話の内、口外していいものと悪いものとを判断する能力を持っていた。そして酒を水で薄めない。
 長く無沙汰にしていたが、彼女はカルナデルを一目で見抜いた。
「病気の母親を差し置いて……」麦酒の臭いが噎せ返るほど立ちこめるなか、記憶の中より幾分老いて小さくなった女店主が、目が合うなり歪んだ口を開いた。「ようやく帰ってきたと思ったら女連れかい? えっ?」
「家に帰ってきたわけじゃねえよ。仕事さ」
「家族をほっぽって、仕事って何だ。陸軍の犬」と、カルナデルが差し出すニーデル貨を目にしても、手を動かそうとせず言葉を継ぐ。「あたしがルナリアに住んでた頃、息子は騎兵に踏み殺された。苦しんで死んでいったよ。それに対して何の賠償もなしさ。それどころか抗議に行った夫をしょっぴくと来た。あの人は病気を悪くした」
「それをオレに謝れって?」
 女店主は表情を変えずにカルナデルを凝視した後、ようやく荒れた手でグラスを掴んだ。
「……何を飲む?」
「飲めりゃ何でもいい」
「私はさくらんぼ酒にするわ」
「カル、あんたも変わったね」出てきたのは麦酒二つだった。「陸軍の犬め」
 カルナデルはリアンセの分のグラスも受け取り、テーブルを縫い歩いた。よそ者を見る鋭い視線が各方向から突き刺さった。この地区で生まれ育った人間を見る目ではない。よそ者を見る目だ。ナリスや女店主が言う通り、自分は変わったとカルナデルは実感した。軍隊や軍学校はあまりにも人を変える。
 よそ者が集まりやすい出入り口付近の大テーブルに、ようやく空席を見つけた。隣の客は、まだ荷物を置く宿も見つけていない中年男で、椅子の周りにずた袋を二つも転がしていた。
「罪を物質で量れるのなら、運送業者に渡して誰かに送れるはずよ!」
 中年男は、向かいに座る宣教師崩れの女にしつこく絡まれていた。カルナデルとリアンセが男の隣に座っても、女は気付きもせずに血走った目で捲し立てる。テーブルには女が口からとばした唾が転々と落ちていた。
「ええ、量れるならね。あんたの罪の重さは幾らかしら? 五十ニーデル? 百五十ニーデル? 一デニーデルあるかもね。ええ、そうですとも。あんたの罪は酒で重い。あんたは自分が酒を飲んでるつもりでしょうね。違うわ。あんたの罪が酒を飲んでるのよ!」
「だから興味ないって言ってるだろ!」中年男は泣きそうな声で怒鳴った。「こっちの若い奴らに絡めよ。おい、お前らこの女の話聞いてやれよ」
 リアンセは無視した。カルナデルは酔いで真っ赤になった男の顔をちらりと見、麦酒を飲み干した。そして言い放つ。
「あー、まずい!」
「まずくて当然だわ。罪を忘れるために酒を飲む事で罪を重ねているんですもの。罪の味よ」
「罪って足し算式なのか?」
 リアンセが不機嫌に呟いた。「放っておきなさいよ」
「だとしたら罪の郵送料ってのは難問だな。罪の重さを量るだろ? そしたら罪を他人に送りつけようとする罪で更に重さが増して配送料がかかる。追加料金を払おうとするとそうまでして罪を送りつけようとする罪でまた重さが増すわけだ。いつまで経っても支払えねぇ」
 女は目をきょろきょろさせた。
「……今のはたとえ話! 仮定の話よ! このケチなコソ泥が自分の取り分はこれだけしかないから罪は重くないはずだなんて抜かすから!」
「コイツがコソ泥だって何でわかるんだ?」
「見て、このずた袋。トリエスタの市旗でできてるわ」
「ホントだ。おっさん、旗なんか盗んでどうするつもりだったんだ?」
「コソ泥じゃねえ! これは正当な戦利品だ!」
 男は怒鳴るが、その程度の大声は酒場の喧噪の中で人目を引くものではなかった。
「どうせ他に包む物がなかったのよ。さて、その包みの中にはどんな(やま)しい物が入ってるんでしょうね」
「だからお前には関係ねえって言ってるだろう!」
「まあ、偉そうに。神の意志を伝える者には罪を天球儀の下に晒す義務があるわ。包みを開けなさい、コソ泥!」
「コソ泥なんかじゃねえ! 俺を誰だと思ってやがる!」
「知らないわよ、誰よあなたは」
「俺は!」男は息を吸った。「俺はシオネビュラ評議会議員ララミディア・コストナーの夫、ヴィン・コストナーだぞ!」
 すると、嘘のように大テーブルが静まり返った。沈黙の波は全方位に広がり、酒場に満ちる声という声、音という音を嘗め尽くした。
 耳が聞こえなくなったかと思うほど、店は静まり返った。
 全ての視線が大テーブルに、ヴィン・コストナーに集まる。
「あーあ、それ言っちまうか?」カルナデルは思いもしない邂逅に平常心がぐらつき、酔いとは別の火照りが体に満ちるのを堪えながらどうにか平静な口調を保った。「頭悪ぃな、オッサン」
 コストナー先生の夫、と、そこらで囁き声があがる。だがその響きには敬意などこめられていなかった。トリエスタで殺されたんだってな、と別の囁き。
 ヴィン・コストナーは酔いが醒めたとみえ、見る見る顔が青ざめていく。彼は、配偶者がどれほど市民の、とりわけ貧しい人々の間で人気の議員であったか理解していなかったようだ。
 異端宗派の伝導師はハンドバッグを掴み、いそいそと席を立った。
「あの……私、関係ないわ」
 店の戸を開け、出て行く。その音が響き渡るのを合図に、店の中程のテーブルから、四人組の男たちが立ち上がった。
 ずた袋を一個だけ掴み、ヴィン・コストナーも立ち上がった。真顔の男たちの接近にあわせて及び腰で後ずさり、壁際まで行くと、身を翻して出入り口の戸に飛びかかった。
 待てコラ! と男たちが叫ぶ。思うところのある他の客たち、または単に騒動好きの客たちが、声を上げて後を追い、出ていく。
「追って!」
 リアンセにせかされるまでもなくカルナデルも立ち上がっていた。
「追ってって、お前はどうするんだよ?」
「コストナーを追う人間は多すぎる。追いかけやすくしてあげるわ」リアンセは肩を竦め、微笑む。「さっきの服屋で落ち合いましょう」
 カルナデルは店を出た。
 おい、何だ何だと声がして、民兵の一団が目の前を横切った。男たちの後ろを追っていく。カルナデルは人気のない、細い道の闇に身を浸した。間もなく酔った男たちと民兵たちの怒鳴り声の応報がわき起こった。子供の頃に遊び慣れたこの地区の地図を頭の中で広げ、土地勘のないよそ者が好んで通りそうな横道を計算する。そして、そのような横道が集合する地点に先回りした。
 そこは、物乞いたちが暗闇から怯えた目を覗かせる、派出神殿の裏だ。
 ヴィン・コストナーが、石造りの壁に取り付けられたカンテラの下に姿を現した。少し開けた派出神殿の裏口で仁王立ちになるカルナデルを前にし、たじろぎ、左右を素早く窺う。身を翻して元来た道を逆戻りしようとしたところで、その道から民兵が一人飛び出して、コストナーに組み付いた。
 コストナーはたちまち派出神殿の壁に押さえつけられた。
 シオネビュラの民兵は鍋によく似た簡素な兜を支給されているが、その民兵はかぶっていなかった。大股で歩み寄り、暴れるコストナー相手に大声を出す民兵の横顔に、カルナデルは息をのんだ。コストナーは両手首を掴まれて、泣きそうな顔で抵抗をやめた。
「よう、シャルナ」
 民兵は殺気立った目でカルナデルを睨みつけた。その目に驚きに満ちた光が走り、両手の力を全く緩めずに表情を和らげた。
「カルナデルじゃないか!」
 状況ゆえ笑顔は見せないが、声には歓迎の響きがあった。
「よう、シャル、久しぶりだな」カルナデルは油断のならない笑みを投げかける。「会ったばっかで悪ぃんだけどさ、昔の馴染みだ、そいつをオレにくれないか?」
 民兵は緊張し、表情を引き締めた。
「何を言ってるんだ。そんな事できるわけないだろう!」
 一方リアンセは、〈八月亭〉を出て飲食街を流し歩いていた。新しいワンピース、新しいケープ、新しい髪飾りが街の灯を映してその色合いを暗く、明るく、また暗く変える。
 入り口が裏通りに面している二階建ての建物の前で、若い兵士が歩哨に立たされていた。一階部分は酒場で、度を失った兵士たちの浮かれ騒ぐ声が外に漏れていた。
 リアンセは酒場の前階段を上がった。
「あの」
 うなだれていた兵士が、緊張を湛えて出入り口を塞いだ。いかにも田舎から徴兵されてきたばかりという風の、純朴そうな若者だった。見たところまだ十代だ。
「この店は今、王領の一個護衛小隊が接収しております。お引き取りください」
「あなた方にはシオネビュラ市民の自由を制限する権利はないはずだわ」
「やめてください!」
 足を踏み出すリアンセの前で、兵士は腕を広げた。
「お願いします、あなたのためです」
 首を横に振る。リアンセは兵士の左腕に右手を優しくかけ、軽く力を加えて下ろすよう促した。
「優しいのね。ありがとう。でも、大丈夫よ」
 兵士の体の横に手を伸ばし、戸を押し開ける。高笑いが押し寄せて、全身を打った。
「何でもするって言ったろ? ええ?」
 店は一階部分と半地下、中二階の三層に分かれていた。軍曹の階級章をつけた男が、中二階の一番手前のテーブルでふんぞり返っているのが入り口から見えた。伍長や一等兵がその軍曹の周囲を取り巻き、気の弱そうな痩躯の男がななめ後ろに立たされていた。他に店員はいないから、店主なのだろう。
「は、はい……」
「民兵連中のところに駆けこんだりしねぇよな?」
 軍曹は楽しげに、嘲りをこめて店主を仰ぎ見る。
「はい、ええ……」
「神官の連中のところにはどうなんだ?」
「言いません、言いません」店主は苦しげだ。話しながら腰を屈め、咳きこんだ。腹か胸を殴られたのだろう。「誰にも言いませんし……店の物は何でもお出ししますから、もう……」
「じゃあよ」と、軍曹。「娘を出せ」
 店主は緊張をまとい、硬直する。
「おらよ」
 悪質な下士官や兵士の期待に満ちた視線が中二階に集中し、悦に入った様子で軍曹は言葉を継いだ。
「俺らが来る前にお前が裏の外階段から三階にやってた小娘だよ。ええっ? 見られてねえと思ってたのかよ?」
 店主は立ったまま軍曹を凝視し、動かない。
「娘は……」どうにか声を振り絞った。「お願いします、どうか娘は――」
「おい、お前さっき店の物は何でも出すって言ったよな」
 軍曹が遮る。
「はい、ですが――」
「おい! お前ら、『はい』だってよ! 聞いたか!」
 リアンセはそっと、細く開いた隙間から店に滑りこんだ。
「今日は金髪娘が手に入るぞ!」
 兵士たちが喝采をあげる。
 大きな音を立てて、リアンセは店の戸を勢いよく閉めた。その音が兵士たちの頭上に響き渡り、戸に取り付けられたベルが乱暴に鳴る。
 全員がリアンセを見た。驚きに満ちた視線。その目が警戒の目に変わっていく。中二階からは好色な目が注ぎ、リアンセは乱れてもいないケープを直す仕草をした。
 そのほっそりした白い腕の動きに、全員が声を失う。
 リアンセは靴音を立てて、一階のカウンターの高いスツールに座った。兵士たちには背中を向ける席だ。
「店主」
 高く涼やかな声で呼ばわり、中二階の店主に微笑みかけた。
「飲み物をちょうだい」
 誰もが事態を把握しかねていた。店主はまごつき、堂々とスツールにかけるリアンセと、呆然とする軍曹とを見比べた。それから、今とばかりにテーブルを離れ、五段しかない階段を、転びそうになりながら下りてきた。跳ね板を上げ、カウンターに入る。間近で見れば、彼は顔の下半分を鼻血で汚し、手も恐らくはその鼻血で塗れていた。鼻が折れているようだ。
「何にいたしましょう」
 店主は震える指でグラスを掴んだ。リアンセは先ほどのカルナデルの言葉を真似た。
「飲めれば何でもいいわ」
 堂々と言い放ち、くつろいだ様子で息をつく。店主は焦るあまりグラスを床に落とした。兵士たちはまだ対応をとりかねていたが、中二階の軍曹がヒュウと口笛を鳴らした。
「見ろよ。上玉だぜ」
 リアンセは振り向かなかった。軍曹がテーブルを二度叩く。
「おい、女! こっちに来て座れ」
 リアンセはカウンターに両肘をつき、指を組んだ。そして一言、
「嫌に決まってるでしょ、(あぶら)デブ」
 またも皆が凍りついた。店主は今度はマドラーを落とし、ヒィッ、と声を上げ飛び上がる。リアンセは今にもはやり歌でも歌いだしそうな雰囲気をまとい、悠然と飲み物を待った。
「おい」軍曹の声に恫喝が混じる。「俺の言う事が聞けねぇのか? 女ぁ」
「聞くわけないじゃない。馬鹿じゃないの? せっかくお洒落な店を見つけて、一人の時間を楽しもうと思ったらこのザマ。静かにしろなんて言わないから、せめて放っておいてよ、脂デブ」
「状況がわかんねぇんだな」
「わかるわ、脂デブ、嫌と言うほど。王領からはるばるご苦労様。女日照りなのね。でもね、あんたには酒だって女だって、何だってもったいないのよ。脂デブはラードでも抱いてなさい」
 兵士たちは、リアンセに対して異常どころか恐怖すら感じ始めた。リアンセは肌に恐怖と動揺の気を浴び、悦に入った。大人数の心を意のままに掴み、征圧するほど心地よい事はない。リアンセは座ったまま、初めて腰をよじり軍曹を見上げ顔を凝視しながら沈黙を裂いた。
「弱い人。自分のコンプレックスを人に八つ当たりして晴らすのやめたら?」
「弱い? ああ? 俺に向かって言ってるんじゃねえだろうな」
「他に誰がいるの? 脂デブ。脂すぎて考えられないの? あなたの脳は脂なの? むしろ全存在が脂なの? ラードなの? 牛脂なの?」勝ち誇ったように笑う。「あのね、当ててあげるわ、弱虫さん。あなたみたいな男はマザコンなのがコンプレックスなのよ。だから女にこだわるんでしょ? 少しは隠せば? ますます弱く見えるわ」
 軍曹は椅子を後ろに倒して立ち上がりながら怒鳴った。
「いい加減にしないとぶち殺すぞ、クソアマ!」
「吠え癖のあるお馬鹿さん。弱い奴ってすぐこれだから嫌になっちゃうわ」指をほどき、肩を竦めた。「脳味噌が小さいのね。もしかしてアッチも小さいの?」
 軍曹は青ざめ、また赤くなり、今度は兵士たちに怒鳴った。
「その女を捕まえろ!」
 何人かが腰を浮かす。
 リアンセはケープの中に腕を入れた。
 ベルトで固定したスパイクを一本抜き取る。
 最初に腰を浮かした兵士に、それを投げつけた。弧を描き飛んだスパイクは、兵士の胸に深々と突き刺さった。その事に、他ならぬリアンセ自身驚いた。鎖帷子を着ているだろうと思ったが、着ていなかったのだ。
 両足を揃えて高いスツールから下りた。長いワンピースをつまみ、ひらりと翻す。
「捕まえてごらんなさい」
 リアンセは路地を駆けた。大通りに出たところで、折りよく二人一組の民兵とすれ違った。怒声をあげて、路地から酔った王領の兵士たちが追いかけてくる。
 民兵たちが呼び子を吹き鳴らす。近くにいた他の民兵たちが、聞きつけて集まってきた。
「王領軍兵士が若い女性を追いかけ回している!」
 早鐘が打ち鳴らされた。一箇所、二箇所、三箇所、飲食街で、倉庫街で、魚市場で、早鐘の波紋が発生し、広がり、ぶつかりあう。
 口論していたカルナデルと幼馴染の民兵にも聞こえた。
「呼んでるぜ?」民兵は涙と鼻水を流すヴィン・コストナーの顔とカルナデルの顔を交互に見比べた。「行けよ。一大事らしいぜ? コソ泥とどっちが大事だよ?」
 民兵は、くそっ! と悪態をつき、ヴィンをカルナデルに向けて突き飛ばした。
「お前、覚えてろよ!」
 走り去っていく。別方向の路地の闇から、群衆が石畳を踏み鳴らす音が迫ってくる。
「おら、しっかり立てよ!」
 カルナデルはヴィンの二の腕を鷲掴みにし、高台へ向かう坂を上り始めた。
「何なんだ、お前は」
 ヴィンの情けない声に、カルナデルはにやりとした。
「傭兵さ。お前、オレを雇えよ」
「王領軍出て行け!」
 騒動に乗じて貧しい労働者たちが騒ぎを起こし始めた。
「王領軍出て行け!」
 酒場から逃げ出した千鳥足の兵士たちが、民兵たちに組み敷かれ、縄をかけられる。だが逃げ仰せていく兵士の方が多かった。民兵たちは続々酒場に集い、王領軍の兵士を道ばたに転がしたまま兵士を追い回す。残された兵士は民衆によって痛めつけられ、装備品や金を奪われるがままとなった。
 騒動は、民兵を呼び、民衆を呼び、王領軍の別の小隊を呼んだ。更に悪い事に、西神殿の神官たちまでをも呼んだ。
 城門内部の闇は篝火によって払われ、機械装置を納めた城門三階部分で、見習いの神官兵二人が、監督する神官の指示によってウインチを回す。二人は神学校の最上級生で、実習のため配備されているのだ。鎖が音を立ててたわみ、城門の外で跳ね橋が下りる。跳ね橋は、堀の途中まで建造された石造りの橋と連結された。
 城門最奥部では、鉄の落とし扉が、二階での機械操作によって天井に上がっていった。それが上がり切らぬ内に、中央の落とし扉が上がり始める。杭を幾つも束ねた形状で、真下を通りかかった敵に対する殺害の意志に満ちた門だ。一番外側は、頑強な木の格子戸だ。格子戸が上がり始め、門の向こうにいる神官兵の縦隊が、堀から見えるようになった。神官兵たちは槍を携え、騎乗した指揮官を筆頭に、城門内へと進み始めた。落とし穴を隠す跳ね上げ戸(トラップドア)を踏みしめ、その足音を落とし穴の空洞に反響させる。松明台を備えた中央の第二城門を通過し、石の廊下に蹄の音を響かせて、第一城門、すなわち最も外側の落とし扉を通過した。
 跳ね橋の上に、指揮官たる三位神官将の姿が松明によって照らし出された。短く丸く切った、燃えるような赤毛。表情はきりりと引き締まっているが童顔で、少女のように小柄な若い女性の神官将だった。
 リアンセは陸橋を走り抜けて、港に近い受け入れ検査場が並ぶ地区に足を踏み入れていた。脂デブは見た目に反して足が速かった。持久力もある。さすがは陸軍人といったところだ。
 ヒヨコの声が聞こえてくる長い天幕に沿って走る。
「おい、なんか騒ぎ大きくなってるけどホント大丈夫か?」
 と、天幕の向こうから作業員の声。
 別の作業員が答えた。
「避難指示出てないし、いいんじゃねえの? 早く終わらせようぜ。ヒヨコ城主がうるせぇから」
 ああ、とどこかで兵士が叫んだ。
「おれのバックラー掏られた!」
 バックラーを掏った少年が、後ろに王領の兵士を引き連れながら天幕の下に潜りこむ。
 天幕の中では、ヒヨコ城主と陰口を叩かれる現場責任者の主任が作業員の一人を呼びだしているところだった。
「あのな、じゃあ聞くけど、お前昨日一日でどれだけ雌雄を選別できた?」
 呼び出されている作業員はニキビだらけの顔をした三十代後半の男性だが、子供のように泣きじゃくっている。しゃくりあげながら答えた。
「じゅ、じゅ、十三羽……」
 彼と同年代のヒヨコ城主もまた泣きそうな顔をした。唇を曲げ、腕を伸ばし、作業員の肩を叩く。
「お前頑張った。よく頑張ったよ。だから次の仕事探そうぜ? なっ?」
「まだ、まだこの仕事始めて半月じゃないですか! 半月じゃないですか!」作業員は叫ぶ。「そんなにすぐできるようになるわけないじゃないですか! 半月じゃないですか!」
「あのな、できる奴はできるようになるんだよ。でもな」
「おれなんか要らないって事ですか!」
「いやいやいや、やめろって言ってるんじゃなくてな? お前のために言ってるんだよ」
「やめろって言ってるじゃないですか! おんなじじゃないですか!」作業員は号泣する。「今度の仕事は一年は続けたいって言った時、主任応援してくれたじゃないですか!」
「できもしねぇ仕事が一年も続くわけねえだろう! おれはもうお前がかわいそうで見てらんねぇんだよ!」
「かわいそうってなんですか! それが曲がりなりにも自分で稼いで生きてる人間に言う言葉ですか!」
 続きになっている作業場からヒヨコの群れが逃げこんできた。二人の後ろをバックラーを抱えた少年が走り抜け、続けて王領軍の兵士たちが乱入する。ヒヨコは我先に逃げるあまり積み重なり、ヒヨコの上にヒヨコが乗って更にその上にヒヨコが乗るという状況で、更に奥の、下側があいた天幕の向こうに吸いこまれていった。
 ヒヨコ城主は天幕に立てかけてあった警備用のさすまたを掴み、兵士たちに踊りかかった。
「おれのヒヨコから離れろぉ!」
「我こそはシオネビュラ神官団三位神官将、ニコシア・コールディーなりぃ!」
 市街にどこか子供っぽい女の声が響く。
「王領陸軍リヨン・クリス少尉、討ち取ったりぃ!」
「強い、強い、強い――」
 声のもとから逃げてきた王領の兵士が、共に逃げ場所を探す仲間に怯えながら訴えた。
「あのチビ女めちゃくちゃ強ぇぞ!」
「ニコシア・コールディーなりぃ!」声は続く。「王領陸軍リヨン・クリス少尉、討ち取ったりぃ!」
 神官兵団とその本拠地で剣を交えるなど愚の骨頂である。
「見ろ、あんな所に地下道があるぞ!」
 派出神殿の真横に間道の入り口を見つけ、逃げ惑う兵士が駆け寄る。
「あんたたち、やめときなさい」
 派出神殿の老いた洗濯婦が、憐れみに満ちた顔で諭した。
「あたしはその地下道に入って出てきた人間を見た事がない」
「我こそはシオネビュラ神官団三位神官将」その声を、坂を駆け上がるカルナデルも聞いた。「ニコシア・コールディーなりぃ! 王領陸軍ウィルギン・アレス中尉、討ち取ったりぃ!」
 カルナデルはヴィンを引きずりながら呟いた。
「やけに強ぇのがいるな」
 民兵団の支部を通り抜ける。
「お前ら、いつになったらネズミを全匹とっ捕まえるんだい!」
 支部の建物内で、六十手前の女性支部長の剣幕に、若い民兵たちが竦み上がる。皆、せいぜい半年ほど前に入団したばかりだ。対する女性支部長は、民兵団に入り間もなく四十年にもなるベテランだった。肩の上で切りそろえた桃色の髪に、薄化粧。皺の数は少ないほうではないが、射るような視線が彼女を老いの印象から遠ざけていた。
 支部長は机の前に並ぶ五人の部下を順に睨みつけ、口を開いた。
「槍を持っておいで」
 民兵たちは互いの顔を見合う。支部長は机を叩いた。
「私の武器だよ! 早くおし、この徴兵逃れの偽装結婚者ども! シオネビュラの民兵団が陸軍より楽な所だと思ってるなら思い知らせてやるからね!」
 民兵たちは、わあ、と声を上げて支部長室を出ていく。支部長は戦いの支度をすべく、奥の控え室の鍵を回した。防具がしまってあるのだ。
「小僧どもに任せておけるかってんだ」
 リアンセは遊歩道に取り付けられた、運河の岸壁へ通じる階段を駆け降りた。橋を背にして振り返る。脂デブの軍曹が、息を切らしながら階段を駆け下りてきた。彼の部下は一人も残っていなかった。
「よくついて来れたわね。評価を改めてあげてもいいわ」
 ケープの下のダガーを抜く。軍曹は呼吸が整うのも待たずに両手剣を抜いた。
「来世のために覚えておくといいわ」リアンセはダガーの柄を握りしめて右肘を上げ、切っ先を天に向ける形でダガーを構えた。「人を見かけで判断しない方がいいって」
「うるせぇ、小娘! よくも騒ぎにしてくれやがって!」
 陸軍軍曹は剣を横構えにし、突進をかけてきた。
「死ぬのはお前だ!」
 リアンセは距離を詰めてくる両手剣の切っ先を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
 左手を壁に伸ばし、立て掛けてある櫂を一本掴んだ。繰り出される剣の突きを、櫂で横から払った。足を踏みこむ。きれいな半円を描いて右手を振り下ろし、ダガーを軍曹の喉に突き立てた。
「ねんねよ、小さいボク」
 信じられないとでも言うように、軍曹が目をむく。力が抜けていくのが伝わる。どこかで火薬が炸裂し、花火が上がった。赤と、緑と、黄の光が、ダガーを片手にワンピースを翻し去るリアンセの背を照らした。
「どうせみんな死ぬんだ」
 ヴィン・コストナーは高台の公園ですすり泣いていた。
「死ぬんだよ。自転が再開して、黎明が来て、みんな死ぬんだ。いいだろ? 生き延びようとしたってよ。何がいけないんだよ?」
 近くに花火工場があった事をカルナデルは思い出した。騒ぎがどのように広がり、花火工場に及んだかはわからない。誰かの意図的によってか、そうでないのか、とにかく花火は上がり続けた。
「みんな死ぬ」ヴィンは続ける。「おれもお前も」
 カルナデルは大輪の花火に見とれていた。白い光が尾を引きながら天を目指し、天球儀を背景に、色とりどりに花開く。妹を肩車してやった事があった。花火を見せるために。
 カルナデルは白い歯を見せて笑った。
「みんな死ぬ? それがどうした? オレたちは今、ここにいるぜ」


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