パレード

文字数 7,615文字

 1.

 夜なる蛇は西へと這い進み、フクシャの町はその薄紫の長い尾にあった。
 蛇。
 夜と朝は、己が尾をくわえた蛇のようなものだとミズルカは思った。あたかも戦争と平和が繰り返されるかのように。
 南西領フクシャは極めて長い歴史を持つ都市だ。遙か昔、地球人による文明退化指導期間中、この街は地球人の保養地であった。それが地球人のための高級墓所を擁する地となり、言語生命体の独立後も、その墓所は残された。
 フクシャは墓守りたちの街だ。丘の上の高級墓所と、それを管理するリジェク市の派出神殿を取り巻くように、丘陵地帯を覆って栄えてきた。
 その街に、軍楽隊の勇壮な行進曲が鳴りわたる。街の南北を貫く通りでは、高台の高級墓所へと向かう反乱軍の入城パレードが行われていた。沿道には、名高い将校や兵士たちの姿を一目見ようとフクシャ市民が押し掛けて、パレードに手を振った。前総督シグレイが長子、第一軍第三軍団第一師団師団長シルヴェリア・ダーシェルナキ、銀の甲冑に身を包んだ褐色の肌の美しい乙女が騎馬で姿を現すと、市民たちの興奮した嬌声は、畏怖に満ちた低いどよめきに変じた。
 兵士たちの中には、このフクシャを故郷とする者も少なくなかった。戦の後の虚脱、長きに及んだ埋葬による精神的疲弊、それをおして、彼らは胸を張り、沿道の人々からの呼び声に手を振り答えた。強攻大隊副官のミズルカ・ディンは、自分の大隊の最後尾を騎馬で進み、行進の監督に当たっていた。だが、兵士たちが市民たちへと控えめに手を振り返す程度のことをやめさせる必要はなかった。
「ミズルカ!」沿道の右手側から覚えのある声が聞こえたのは、ミズルカ自身が生まれ育った区画に差し掛かったときだった。「おおい!」
 思わず、声が聞こえたほうを見た。
 沿道を埋め尽くす市民たちの最前列に、ミズルカは両親の姿を見つけた。ミズルカが士官学校に進むのを最後まで反対し続けた父が、何かを堪えるように唇を結び、両手を背中に回してミズルカを見ていた。不仲だった父のその姿に、愛情とも呼べるものを確かに見て取った。隣には母がいて、鼻と口をハンカチで覆いながら涙を流している。父とは憎しみあっていると言っても過言ではなかったはずの、ミズルカに学資を提供した母方の祖父母も共にいた。二人の兄もいて、ミズルカに声をかけたのは、下の兄だった。下の兄の兄嫁がその隣に立っており、幼い姪が小さな手を一生懸命振っていた。
 ミズルカは表情を引き締め、前を向いた。涙もろい彼は、ただ己の内からこみ上げる情動を抑えることだけに集中せねばならなかった。
 ヨリスは強攻大隊の列の先頭で、黒馬に跨っていた。体が重くなるため、彼は鎧の類を嫌っていた。だがこのときばかりは軽歩兵部隊の鎧に身を包み、ヘルメット型の兜をかぶらねばならず、後ろに二人の旗手を引き連れて進んだ。この街には、ヨリスを待ち侘びる人間はいなかった。ただ彼は、沿道に一定間隔で並び立つ、不思議なオブジェを心の片隅で気にかけていた。それは土台に固定された、人の背丈よりずっと大きな剣やメイスといったもので、支柱と鎖で固定され、鍵がかけられていた。
 二時間のパレードは、終端を飾るシオネビュラ神官団が高級墓所南部の緑地公園に到着して終わった。シオネビュラ神官団は彼らの根拠地であるシオネビュラ市に戻らず、反乱軍第一軍と共にフクシャに留まり再編成を行う手筈になっていた。
「見せ物市は終わりか?」
 三位神官将ニコシア・コールディーは、フクシャ市民の視線から開放された後、補佐官のミオン・ジェイルに不機嫌をぶつけた。ジェイルは困った顔を見せた。
「一応は。ですが当分は続きますよ。彼らには英雄が必要です」
「では、早々宿営場所に引き上げるとしよう。あの花火バカと長広舌バカはどこだ?」
 その頃レグロとメイファは緑地公園を囲む柵のすぐ内側におり、騎馬のまま、柵の向こうの市民たちにまだ手を振っていた。
 メイファが市民たちに聞こえぬようレグロの耳許で喋る。
「いやあ、みなさん大層なお喜びぶりで。他によっぽど娯楽がないのでしょうねえ。英雄を必要とする世の中はろくな世の中ではないと言いますが、それにしても全くこの熱狂ぶりは世も末の裏返しと言いますか、ははは」
「なぁに、仕方がないさ。人は美しいものを前にして心を奪われずにはいられない。そう、花火のように……」と、二位神官将レグロ・ヒュームは、旗のついた槍を夜明けの薄紫の空に突きあげた。「そう! 美しいもの全てに価値がある! そして私は美しい!」
 そんな二人の様子を知らないニコシアとジェイルは、整列を始める神官兵の様子を見守りながら会話を続けた。
「本日の入城パレードにあわせて、シオネビュラ市より正位神官将殿からの献辞が届く予定だ。近々何らかの褒美が与えられる。望むものを聞かれるだろうから考えておけ」
「三位神官将様は何を?」
 ニコシアは鋭い目でジェイルを見たが、ふとその目を和らげて、肩を竦めた。
「さぁな。というより、二位神官将は何をしている。ちょっと探してこい」
「承知しました」
「ついでに所望の褒美の品でも聞いてやれ」
 それを受け、ジェイルはどうでもよさそうに受け答える。
「二位神官将様には花火でも上げておけばいいんじゃないですかね」
「安っ」
 ニコシアは心の底から言った。
 緑地公園には、どのような権限でか、南西領陸軍の貴族将校会の婦人部、そして退役した元将校の会員たちが押し寄せ、全部隊の到着を待っていた。広大な緑地公園は、軍人と軍の関係者で溢れんばかりとなった。
 パレードの後は小隊ごとの点呼ののち、各宿営場所へ分散する。連隊長以上の役職にある将校は直ちに全体会議へ向かわなければならないのだが、シルヴェリア師団の第一歩兵連隊隊長コーネルピン大佐は、整列点呼ののちすぐさまヨリスのもとへ歩み寄ってきた。
「ちょっといいかね?」
 なのでヨリスは、強攻大隊の宿営地への引率を副官と副長に任せ、コーネルピン大佐と向き合った。
「何でございましょう」
「君と一度、ゆっくり話をしたほうがいいと思っていたんだがね。もっと早く……フクシャの会戦が終わってすぐのほうがよかったことは承知だが……」
 と、連隊長は羽根飾り付きの兜を脱いで禿げあがった頭をさらし、ハンカチで頭を拭いた。その煮えきらない態度から、ユヴェンサのことであろうとヨリスは察した。
 彼女を喪失した件について、誰とも話し合う気はなかった。他人から痛々しい目で見られるのも、彼女をよく知る者と傷を舐めあうのも御免だった。
 ましてヨリスはコーネルピン大佐を信用していない。もとより乏しい信頼は、開戦直前、北トレブレンの連隊指揮所で侮蔑的な扱いを受けた際に完全に失われた。あの件で、ヨリスはただの一言も謝罪を受け取ってはいない。いかにこちらが部下で、あちらが上官といえども、その扱いはコーネルピン大佐を今後二度と信用せぬと思わせるに足るものだった。
 そういうわけで、ヨリスはただ、連隊長という地位と役職に敬意を払うにとどめていた。その地位と役職を占めるコーネルピン大佐のことなどはどうでもいい。
 話を切り出されたらどう遮ろうか。
 そう考えている間に、二人のもとにおずおずと近付く人影があった。
 コーネルピン大佐とヨリスは揃って人影に顔を向けた。
 ほっそりした体つきの、三十前後の女だった。見たところ六歳か七歳かの、女の子の手を引いている。どちらも身なりがよく、貴族将校会婦人部の者であろうと思われた。女の子の顔立ちから、ヨリスは見知った者の面影を感じた。
 女はやつれた顔で、目に緊張を通り過ぎて恐怖さえ浮かべながら、口を開いた。
「恐れ入りますが、あなた様はモリステン・コーネルピン大佐殿でお間違いございませんでしょうか」
「どちら様ですかな?」と、コーネルピン大佐。
 女はスカートを両手でつまみ上げ、一礼した。幼い少女もきちんと礼をした。
「お取り込み中のところ、誠に申し訳ございません。無礼をお許しください……私はトリエスタ市より参りましたエリス・キャトリンと申します」
「ほう」大佐は目を丸く見開く。「もしや……」
「あなた様の元部下、裏切り者となりしダリル・キャトリンの妻でございます」
 ヨリスがコーネルピン大佐に目をやると、彼は目を見開いたまま硬直していた。女は子供の背を押した。
「こちらは長女のダリア・キャトリンでございます。我が夫のなししことを、夫に代わり」
 声が詰まった。
 女の目は真っ赤に充血していた。
「謝罪を――」
 堪えきれず、彼女は涙を流し始める。言葉は(むせ)び泣きに変わった。少女も母親の動揺の気を浴びて、みるみる泣き顔になっていく。
「お泣きなさるな、おお、奥方」
 コーネルピン大佐は、いかにも人格者然とした声と空気をまとい、女に歩み寄っていった。
「どうか……おお、どうか落ち着いてください。あなたには、もちろん娘さんにも、そのようなことは何ら咎なきこと。さあ、顔を上げてください」
 あざとい女だと、ヨリスは冷たい心で思った。女はしゃくりあげながら続けた。
「いいえ、コーネルピン大佐殿……私の咎はひとえに、夫のおかしな兆候に気がつかなかったこと……」
「何を仰います。最後の数ヶ月間、彼ともっとも長く共にいたのはこの私。彼の翻意に関しては、この私が責を負うことです。私のほうこそ、何が彼をそれほどまでに追いつめたかを究明し、ご遺族にご説明差し上げなければならぬことです」
「ああ、大佐殿」女は、コーネルピン大佐に縋りつかんばかりだ。「私は本日、厚かましくも恥を忍んでお願いに参ったのでございます。夫の……ひいてはキャトリン家の……名誉が、必要以上に傷つけられることなきよう」
「もちろんでございます!」
 大佐は勢いづいて頷いた。
 続く言葉を聞かずして、ヨリスは彼らに背を向けた。
 馬鹿馬鹿しくて仕方がなかった。連隊長は、ダリル・キャトリンの謀反で死んだ兵士たちのことはどう考えているのだろう? ダリルがコーネルピン大佐の部下だったのと同様、死んだ兵士たちもコーネルピン大佐の部下なのだが。
 所詮、家柄ということか。
 ついそう考えてしまった己の卑屈さに気付いた瞬間、ヨリスは激しく自己嫌悪した。
 緑地公園を出るとき、ある方向から敵意の塊が飛んでくるのを感じた。視界の端で確認すると、チェルナー中将、そして数人の婦人と、貴族将校会の退役軍人たちの姿が見えた。ヨリスを見て、険悪な様子でひそひそ話をしている。
 フクシャの会戦終了後のチェルナー中将との話し合いについて、くだらないことを言ってしまったとヨリスは思っていた。あの場では、明らかに、自分よりも中将のほうが弱い立場にあった。それを自分としたことが冷静さを失し、もはや話し合いなど不可能な状態にしてしまったのだ。
 二度と同じ愚は犯すまい。
 公園の外には叫喚が渦巻いていた。召集により、または志願して軍に入った家族を一目見んと、フクシャ市民が押し寄せているのだ。中には戦死を知らぬのであろう人が、泣きながら夫や、父や、恋人や、息子や、兄弟、そうした人々を見なかったかと、半狂乱で尋ねて回っていた。
 馬車道に出ると、狂乱はぱたりとやむ。既に兵士たちが通り過ぎたあとの道を、ヨリスは急ぐでもなく歩いた。緑の新芽をいっぱいにつけたイチョウ並木が続き、家々の外壁には、色とりどりの花が植えられた素焼きの鉢がいくつも並んでいる。フクシャは花の都だ。墓所に眠る古き世の地球人のために、花が絶やされることはない。
 ふと嫌な予感がした。
 右手側から自分に迫る害意を感じ、ヨリスはさっと足を前に出した。すると、頭の真後ろを石か何かが通り過ぎ、鉢植えの一つを砕いた。
 投石手の姿は見えず、ヨリスも敢えて探しはしなかった。
 強攻大隊の指揮所となる旅籠にたどり着くと、五人の大隊長つき護衛兵士と副官のミズルカが、通りに背を向ける形で玄関扉に張り付いていた。
「何をしている?」
 声をかけると、彼らはいささか慌てた様子で振り向いた。彼らは掃除用品を手にしており、足許にはバケツがある。旅籠の戸に、赤い塗料で殴り書きがされていた。大部分が洗い流されていると言えど、まだ十分に判読できる状態だった。
『売春婦の息子は帰れ』
 チェルナー中将が自らやったとは考えられない。この時勢、小銭を与えられればこの程度のことを進んで行う人間は少なくないだろう。
 何も言えずにいる護衛たちと副官に、ヨリスは尋ねた。
「私の部屋はどこだ?」
 ミズルカが躊躇いがちに答えた。
「西館一階の奥の大部屋です。エントランス左奥の渡り廊下を進んでください」そして、何かを喋り続けなければ不安で仕方がないとばかりに、こう付け加えた。「はじめは西館の最上階のはずでしたが、有事の際の動きやすさを考え一階に変更いたしました」
「ほう。よく気を利かせたな」
 ヨリスは頷き、ミズルカたちを扉の前から一旦どかせて旅籠に入っていった。
 ミズルカと護衛兵士たちは、玄関扉の清掃作業に戻った。
 チェルナー中将がさせたことに違いないとミズルカにもわかっていた。ウルプ大佐かもしれないが、同じことだ。
 ユヴェンサ・チェルナーの戦死によって深く傷ついているのはチェルナー中将だけではない。中将は気持ちの落としどころがわからないのだ。だが、では、ヨリス少佐はどうなのだろう? ミズルカは考える。ヨリス少佐は婚約者の死をどのように意味づけ、それか、位置づけているのだろう? と。それとも、死は死でしかなく、ユヴェンサはただ……残酷なことに……ただ運が悪かっただけで、意味を求めることなどは、間違っているのだろうか?
 ミズルカが鼻をすすり上げる音を、護衛兵士の一人が聞いた。彼はこの副官が、冷たい水で手を真っ赤にしてたわしで扉をこすりながら、涙を流しているのを見た。護衛兵士の目にも涙が浮かぶ。仲間の兵士に肘でつつかれ、彼は歯を食いしばった。
 ヨリスは自分の居室をすぐに見つけた。イチョウの大樹を囲む花壇を松明が照らす中庭に面しており、二間続きになった、なかなか良い部屋だった。調度は白塗りの家具で統一されており、明るく、大きなテーブルには、銀器に大粒の苺と白い花が盛られていた。
 苺は副官と護衛たちにくれてやろうとヨリスは考えた。一人で椅子にかけ、腕を組む。少し休もうと思い、目を閉じた。
 居室の戸がノックされたのはそのときだった。
 ヨリスは目を開けた。足音が聞こえなかったことを怪訝に思いながら声をかける。
「誰だ?」
 聞き慣れた声が答えた。
「弓射中隊隊長ユヴェンサ・チェルナー上級大尉でございます。今、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ああ」
 ヨリスはその声に安らぎを覚え、腕組みを解いて返事をした。
「入れ。鍵は開いている」
「私的な用件ですが、構いませんか?」
「構わない」
 果たして戸が開き、ユヴェンサ・チェルナーその人が部屋に入ってきた。
 ユヴェンサは後ろ手で戸を閉めた。
 彼女は、女性としては大柄で、背丈もヨリスより僅かに低い程度だ。しっかりと肉付きがよくて逞しく、(あかがね)の目には星の輝き。それと同じ色の髪が、肩の上で豊かに渦を巻いている。本来であれば結ばなければならないのだが、今は休憩時間中のこと、咎めるには値しない。
 ヨリスは何故だか、随分久しぶりに彼女を見る気がした。ユヴェンサの表情はといえば、口角は上がり、頬はゆるみ、確かに微笑んでいるのだが、長い睫に縁取られた目を光らせるものは強い悲壮だった。なのでヨリスは驚いた。椅子を立つ。
「どうした」
 ユヴェンサは口を開いた。その途端、彼女の目から涙が溢れた。再び口を閉じ、誤魔化すように微笑する。
「何故泣いている?」
 テーブルを迂回し、ユヴェンサのもとへと歩み寄る。三歩か四歩の距離で立ち止まれば、あとはユヴェンサのほうから来て抱擁するのが常だった。
 だがユヴェンサは、微笑みながら泣くばかり。
「ギィ」
 と、震える声が言った。
「ギィ、好きよ……ギィ……好きよ。ギィ……マグダリス」
 微笑が消えた。ユヴェンサは口を覆う。目から溢れる涙の量がたちまち増した。
「誰が、何と言っても……」
 そんなことか、と言いかけて、ヨリスは思いとどまる。彼女は珍しいことに、ひどく不安定な状態にあるらしく、その言い方は思いやりがないように伝わってしまう恐れがあった。ヨリスには彼女の来訪の理由も、涙の理由もわからなかった。
 ただ、今、言わなければならなかったのだ。
 彼女はそれを。
 ヨリスは右手を上げ、しかし、ユヴェンサのどこに触れればいいかわからず困惑した。
 それから己の手を見つめた。
「俺のこの手は血で汚れすぎている」
 ユヴェンサは黙って話の続きを待っている。
「俺はあまりにも業が深い。正しい人間でもなければよい人間でもない」
 不意に、喉を詰まらせる強い衝動を覚えた。ある情動。鼻の奥が痛み、塩辛い涙の味を喉に感じた。十代の少年の頃より忘れて久しい味。ヨリスはそれを飲み干した。やはり涙は出ず、相変わらずの無表情に、気まずさが少し混ざる。
「それに――どうやら君が思うほど強い男でもないようだ。それでも構わないか?」
「あなたは」
 泣くのをやめてほしかった。
 ヨリスは笑うのがうまくない。それでも今、ユヴェンサが望むなら笑おうと思った。
 ユヴェンサは言葉を続けた。
「あなたは、ただ……途中で取り上げられることや、手に入らないことに慣らされすぎているのよ」
 ユヴェンサは手で口許を覆うのをやめ、ふっくらと厚い掌と指を、ヨリスへ差し伸べた。
 ヨリスはその手を握った。冷たかった
「ねぇ、甘えていい?」
 不思議と恥じらいが生じなかった。そうすることは、あまりに当たり前のように思えた。恋人同士なのだから。ヨリスは頷く。
「ああ」
 全身にユヴェンサがぶつかってきた。首に両腕が回り、頬に柔らかい髪が当たる。
「愛しているわ」
 耳許で聞こえた。直後、唇を奪われた。
 すると全てが消えた。
 ユヴェンサの体、髪も、手も、唇も。その温もりも、その声も。
 消えてしまった。
 ヨリスは旅籠の居室の真ん中で、一人立ち尽くしていた。
 口にはユヴェンサの唇の、頬にはユヴェンサの髪の、腕には抱きしめた体の感触が残っていた。
 ヨリスは知った。
 夢は消えることを。
 そしてまた、消え得ぬもののあることを。


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