隠密行動

文字数 2,822文字

 2.

 雨が叩きつけるように降る中を、アセルは肩をすぼめて歩いていた。二日続けての雨だ。道の左右の家々は暗く、静まり返っている。ここは大道路沿いに点在する数ある村の一つだが、そう遠くない昔に打ち捨てられていた。
 アセルは石畳の上に、三角錐に組まれた石を見つけた。近くの家の壁、ちょうど子供の目の高さの辺りに、白墨で落書きがされている。描かれているものは、丸や三角といった記号、雲や、服、人間の怒った顔などで、アセルは屈んでそれを見つめた後、ポケットから白墨を取り出した。花や星、虫といった落書きを、子供のようにへたくそに描き足し、立ち上がって、組まれた石を蹴って散らした。

 ※

 アセルは真っ暗な民家に戻った。戸を叩き、
「クルス」
 静かな足音が家の中から聞こえ、間もなく内鍵が開いた。アセルは素早く家の中に滑りこみ、鍵をかけた。
 二人は家の二階の寝室に向かった。全ての窓にカーテンがかけられ、ナイトテーブルの上のカンテラには黒い紙筒が被せてある。中はほぼ真っ暗だ。
「眠れたか?」
 アセルは上着を脱ぎながら言った。シンクルスはベッドに座り、どこか上の空のぼうっとした様子で「ああ」、と答えた。オレー大将処刑のショックが抜けていないのだ。傷つき疲れた目をしている。
「結構な事だ」
 上着を壁に掛け、丸いスツールに座る。シンクルスは悄然とうなだれたまま、親子ほど年の離れた親友の様子を観察した。アセルは今の所、自分をただの少しだらしない中年男に見せる事に成功していた。その鋭すぎる眼光を除いて。
「今日付けの情報が入った」
 アセルはその鋭い目をじっとシンクルスに注ぎ、口を開いた。
「トレブレン-コブレン間道路はダーシェルナキ軍によって封鎖されているが、連合側は前衛部隊を、道路北側を使用する前提で動かしている」
「必ず道路を手に入れる目算がある、と?」
「北トレブレンからダーシェルナキ軍を一掃するつもりだな。膠着は間もなく破られる」肩を竦め、「別に今日でもおかしくない」
「総督には――無論、前総督ダーシェルナキ公にであるが、その情報は届いておるのか?」
「いいや」
 アセルは顔をしかめた。
「トリエスタで諜報員が捕らえられ、小競り合いの結果散り散りになった。身体検査にかけられて官給品の下着を身に着けていた事からバレたらしい。尋問にかけられる前に毒を舐め自害した。……リアンセ・ホーリーバーチ中尉の部下だ」
 シンクルスの顔から憂いが払拭され、代わりに生気と緊張が満ちた。シンクルスは背筋を伸ばし、身を乗り出した。
「リアンセは無事であろうか」
「わからん。どうにか逃げ延びているようだが、無事は確認できていない」
 リアンセはシンクルスにとって、同郷の出であり、幼馴染であった。シンクルスの南西領への亡命に一役買った事――その事は、言わないでほしいとリアンセに頼まれて、アセルも、モーム大佐も、誰もシンクルスに教えていなかった。
 アセルとてリアンセが心配でないはずがなく、シンクルスの心境を思うと胸が痛んだ。が、だからこそ、厳しい口調で言った。
「クルス。わかっていると思うが君は他人の心配をしている場合じゃないぞ。自分のするべき事に集中しろ」
「するべき事――」
「オレー大将の側近の者から君への伝言を預かっている。『我々の緑の島に隠した』、だそうだ。意味は私に聞くな」
「我々の緑の島……」
 シンクルスは得心したように何度か頷き、顔を上げてアセルと目を合わせた。
「何だ、それは。暗号か?」
「いいや。南西領の南の沖に実在する島だ」
 アセルがじっと見つめると、シンクルスはその無言の問いに、より一層小さく潜めた声で応じた。
「これから俺が語る内容は禁識であり、神官以外の人間に漏らせば打ち首であるが……夜の王国がこうなった以上、旧態に固執しても仕方あるまい」
 アセルはスツールを持ってシンクルスの真横に移動した。
「中佐殿は我々が『言語生命体』と呼ばれる所以(ゆえん)をご存知か?」
「神話程度でならな。遥か昔、神人が坐す星『地球(テラ・マーテル)』では、神人がお戯れでお造りになった『言葉』から、神人の似姿である言語生命体が生まれたと。実際のところはどうなんだ?」
「地球人たちもかつては言葉を有していた」シンクルスは地球人について、決して神や神人という表現をしない事にアセルは気付いていた。「だが、彼らの脳は進化を遂げた。言葉に依らず相手の脳に情報を伝達する手段を獲得したのだ。言葉に頼っていた長い歴史や往時の価値観、言葉によって記述された景観が消えていく事を惜しみ、彼らは言語生命体を造った。言語生命体は概ね、進化以前の地球人と同じ外見や身体能力を有していた。進化後の地球人の姿は我々とは大きく異なっている。彼らはあまりにもひよわだ」
 シンクルスは膝の上で指を組み替えた。
「かつて言語生命体と地球人がアースフィア全域で共存していた頃、この夜の領域で疫病が流行した。多くの死者が出たが、その半数以上が体の弱い地球人であった。地球人たちは離島の療養所を占有し、自分たちだけが優先的に保護されるようにした。それが『我々の緑の島』だ。我々、というのはつまり、地球人の事だ」
 目を上げ、アセルを見た。
「地球人と言語生命体が、少なくとも法の上では平等だった頃の出来事だ。両者に言い分があり、緑の島での一件は互いの溝と反発を大きくした。そこには今も疫病のウイルスが永久保管されている。それゆえ第一級禁足地に指定され、地図からも歴史からも抹消された」
「その島へは行けるのか?」
「タルジェン島からなら近い。あそこに帰れるなら、という話になるが……」
「島についてはわかった。隠したというのはどういう事だ?」
 シンクルスは握った左手を唇に当て、何か思い悩んだ後、先ほどよりももっと躊躇いながら口を開いた。
「……オレー大将は、南西領南部から『宙梯』へ至る正しい航海図を持っていると俺に打ち明けられた。それをある場所に隠したと。だが、どこに隠したかは直前まで打ち明けぬつもりでおられた」
「では、それが君のするべき事だな。どうにかして島に渡り、航海図を手に入れて、前総督の所に持って行くんだ」
 シンクルスは力強く頷いた。突然に正位神官将の役職を失い、従って部下の神官たちと神殿に別れを告げねばならず、自分を呼び出した神官大将は処刑され、更に自分も殺されかけた。
 シグレイと合流しろと言われても、具体的に何をするべきかかわからず、自分がばらばらになった気分だった。けれど今、明確な目標という立ち直る足がかりを得た。
「行こう、中佐殿」
「南東部の沿岸やタルジェン島には君への刺客がうようよしていると思うがな」
「それでも行かねばならぬ」シンクルスは力強く、きっぱり言った。「最善の行程を考えよう」


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