世界で一番嫌いな女

文字数 9,145文字

 3.

 ハルジェニク・アーチャーの人生の幸福な時期は三歳で終わった。隣町ザナリスに、ライトアロー家が嫡男シンクルスが生まれたせいだ。以後十六年間、やれ神童だ天才児だともてはやされる三歳年下のライバル家の世継ぎと比較されては蔑まれ、実の両親に罵倒されるという苦難の時期を彼は生きた。しかし、ハルジェニクが十九歳の時にシンクルスは死んだ。彼の祖父と両親が陥れられ、政争に破れ、シンクルスは獄死したのだ。
 ずっとそう信じてきた。
 彼は生きていた。そういえば、アーチャー家の人間の誰も、シンクルスの死体を確認してはいなかった。詰めが甘かったとしか言いようがない。とにかく彼は生きており、放たれた刺客を撃退し、生き延びた。ハルジェニクは椅子に深く腰かけ、眉間の皺を深くした。三人も雇ったのだ。手練れの刺客を。その全てを一人で仕留めたとは思えない。協力者がいるはずだが、その協力者の正体については何の手がかりもなかった。
 情報部だろうか?
 有り得ると思う。南西領陸軍の情報部は、暗殺機関としても有名だ。暗殺者には暗殺者で、ということか。報告によれば、刺客たちはみな、一撃で致命傷を与えられて死んでいたという。かなり慣れていなければ、そのような殺し方はできない。
 それに、情報部にはリアンセ・ホーリーバーチがいる。
 シンクルスの、そして、自分の幼なじみ。シンクルスの婚約者の妹。西方領を出奔したことは知っていたが、同じ神官の世界に生きるなら、いずれ(まみ)えることもあろうと思っていた。陸軍に入ったと知ったときには、裏切りを受けた気分にさえなった。だが、裏切るどころか彼女は一度だってハルジェニクの味方だったことはない。裏切られたと感じているなどと知ったら、嫌悪も露わに顔を顰めるだろう。十代の少年少女だった頃、ハルジェニクをこっぴどく振った時のように。リアンセ。華奢で愛らしい娘だが、無自覚に残酷だった。そしてある年齢以降、無自覚を装うことを学んだ。少女から女へと、たちの悪い変貌を遂げたのだ。
 リアンセの一つ上の姉がシンクルスと婚約した時、リアンセはひどく動揺していた。彼女の心もまたシンクルスに寄せられていたのだ。彼女は節度を守り、何でもないように振る舞っていたが、十四歳の少女に耐えられるものではなかった。ハルジェニクがリアンセに交際を申し込んだのも、その時だった。リアンセは、汚らしくてしょうがないと言わんばかりの目をくれて、吐き捨てた。
『どうしてあなたなの? 悪い冗談はやめて!』
 今でも羞恥がこみ上げてくる。ハルジェニクは以降、心の底でリアンセを恐怖するようになった。ライトアロー家の没落の際にも、彼女には一切手出しできなかった。それをしないという良心があるのだと、自分を偽るので精一杯だった。良心などないことは、自分自身でよくわかっていた。弾みとはいえ、リアンセの姉、ロザリアに、あのような――。
 ドアがノックされた。誰何する。補佐官だった。入室を許すと見慣れたあばた顔が入ってきた。今日も辛気くさい。トレブレニカの商館の一室で、ハルジェニクは頬杖をやめ、組んでいた足を解いた。
「例の娘の件か?」
「はい」
「その顔じゃ、いい知らせではないんだろうな」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいから説明しろ」
 補佐官は背筋を伸ばしたまま微動だにしない。唇と頬の肉だけ動いた。
「本件を担当する人員と協議した結果、リレーネ・リリクレストはすでに北トレブレンを脱出している可能性が高いとの結論に至りました」
 ハルジェニクは鋭い目で補佐官を睨んだ。
「と、申しますのは……」補佐官の声が弱々しくなる。「北トレブレン全市を捜索した結果、市街への脱出路が判明しているだけでも十五も存在していることがわかったからです」
「どこからの情報だ?」
「中心街の派出神殿の神官の証言でございます」
「裏はとったのか」
「文献に残る十五の隠し通路のうち、七つの実在を確認できました。ただ、その全てが市外に通じているかの確認はできておりません。なにぶん長く、直ちに捜索開始というわけにはいかず……」
「わかった」ハルジェニクは頷いた。「反乱軍の情報部の奴らがトレブレン地方にいないなどとは俺も思っていない。娘には護衛武官がついていたな。そいつが情報部と接触したなら、早急に北トレブレンを脱出できたというわけだ。そう言いたいんだろう」
「その通りでございます」
 考えあぐねて沈黙する。
 判明している全ての隠し通路を調べ、リレーネ・リリクレストが通った痕跡を探し追跡するなどとても現実的ではない。たった一人の娘の捜索に、これ以上の人手と時間は割けない。どうすべきか……。
 するとまた、誰かが外から戸を叩いた。
「誰だ」
 今度は三位神官将の護衛兵長だった。
「お取り込み中失礼します。三位神官将殿、北トレブレンより使いの者が来ております。西方領スリロス〈朽ち木と棘〉神殿二位神官将婦人、イノイラ・アーチャー殿が面談を求めておられます」
 ハルジェニクは舌打ちした。
「あのブス、マジで来たのか……」
 南西領の新任神官大将ウージェニー・アーチャーの長女。ハルジェニク・アーチャーのはとこだ。
「どこにいる?」
「北トレブレン北部にご宿泊でいらっしゃいます」
 そこまで行けと言うのか。ハルジェニクは、用があるなら自分で来い、と言ってやりたかった。だが、自分が彼女を呼びつけるなどできないということも、同じくらいわかっていた。ついでに用件もわかっている。金をせびりにきたのだ。
「……馬を用意してくれ。すぐ行く」
「かしこまりました」
 ハルジェニクは補佐官も下がらせた。机から小切手の台紙を出して図嚢に入れ、隣の狭い控え室で、薄墨色のマントを取る。八角形の鏡に自分の顔が映った。眉間に皺を寄せるのをやめれば、多少魅力的に見えるはずだ。だがハルジェニクは、もはやどのような女性からも好かれたいとは思っていなかった。控室を出る時、南東領に残してきた、身籠った妻を思い出した。彼女は俺を愛しているだろうか? 俺は彼女を愛しているだろうか?
 愛していなくはない。
 ハルジェニクは暗澹たる気分になった。
 イノイラ・アーチャーは、雰囲気からして自己愛と被害妄想が強そうで、欺瞞臭い女だった。四十過ぎだが夢見がちで、自分を十代の美少女だと思っていそうな節がある。彼女はホテルの喫茶室の個室でハルジェニクを待っていた。
「三日早く来てもよかったんだぞ」ハルジェニクは案内人が個室から出ていくのを見届けてから、はとこに言った。「そしたら観戦できた」
 イノイラは、痩せぎすで、何年か前に会った時よりも肌が荒れていた。汚い肌だと思う。目には潤んだ光を湛えている。どうすればわざとそんな目ができるのか、ハルジェニクにはわからない。口はいつも半開きで、髪は頭のてっぺんでシニョンに詰めているが、ぱさぱさした髪質のせいでほぐれて網から飛び出している。つまり、生まれ育ちにも関わらず着ている服以外貧相で、魅力のない女だ。
 イノイラは「ふぅん」と唸り、意味もなく指で自分の顔を撫でた。
「疲れているのね。寝不足じゃないかしら。隈が浮いているわ」
「当たり前だ、ぐっすり眠れる日などありゃしない。もっとも遊びに来たあんたは違うようだがな。暇か? だったらこっちの事情を察してくれ。そのほうがあんたも、有り余る余暇を楽しめるってわけだ」
「私のお母様が、この度南西領の神官大将に就任しましたわ。知ってるでしょう?」
 包みこむように、頬の両側に掌を当て、イノイラは肘をテーブルについて小首を傾げた。潤んだ目はハルジェニクを見たままだ。
「父君からの祝儀がなかったってか?」
「あなたのお父様からのお祝儀はいただだきましたわ。名簿に載っていなかったのは、あなたよ、ハルジェニク。それで何か事情があるんじゃないかと思って聞きに来たの」
「事情なんかあるか」イノイラの仕草がグロテスクなものに見えて、ハルジェニクは吐き捨てた。「で、どうして欲しいんだ」
 するとイノイラは困ったように口をすぼめた。
「考えたら、わかると思うんだけどなぁ……」
 ハルジェニクは不快感が顔に現れるのを隠そうともせず、ベルを鳴らした。ペンとインク壷を持ってくるよう言い、小切手の台紙を出した。筆記具はすぐに用意された。イノイラはわくわくしながら待っている。ハルジェニクは自分の署名と、五十クレスニーの額面を記入した。その小切手が、台紙に残る最後の一枚だった。破れよとばかりに台紙から引きちぎる。破れてくれたらこの女に渡さなくて済むのに。破れなかった。
「これだけ?」
 イノイラは不満も露わに声を上げた。
「これだけだと? 結構な大金だろうが」
「カラマは七十クレスニー出したわ」眉を顰め、首を横に振る。「ミスラエルは八十……」そして、顔を上げる。小切手には早くも皺が寄っていた。「あなた、お金に困っているのね。そうでしょ?」
「さぁな」
「言っておくけど、金額の問題じゃないのよ。あなたにだって体面があるでしょう。まだ学生のレーンシーとレーニールでさえ六十五クレスニーずつ出したのに……」
「親の金だろう」
 いつまでもくどくどと言い続けるつもりらしい。畳みかけてこようとするのを遮った。
「さっさとその紙切れを母親のところに持って帰れよ。有り難ぶってな。粘ったって小切手はそれが最後の一枚だ」
 すると、イノイラは自分のハンドバッグから小切手の台紙を取り出し、テーブルに置いた。恐るべき図々しさだ。いっそすがすがしくさえある。
「金ならある」ハルジェニクは腕組みした。「だがそれ以上はやらん。せびりに来たのがお前でなければもう少し弾んでもよかったんだがな。それこそレーンシーやレーニールだったら。だが多めに渡してお前の小遣いになるのは許せん」
「わかりました」イノイラはひどい侮辱を受けたような顔をした。「この額面で、お母様のもとにお持ちしますわ。あなたのために良いことがどうか、わからないけど」溜め息をつく。
「そろそろ指揮所に帰らせてくれ」ハルジェニクはイノイラの溜め息が混ざった空気を顔の前から払う仕草をした。「それか、歯を磨いてこい」
「話は終わってないわ」
 イノイラはハルジェニクを帰そうとはしなかったが、歯磨きにも行かなかった。
「ガムレド二位神官将の姪ごさんの件を聞いたわ。行方不明だって」
「口は臭いくせに耳掃除はしているようだな」
 嫌味は聞こえないようだ。
「捜索はうまくいっているの?」
「秘密だ」
「いってないのね。やっぱり」
 イノイラはさも思いやりに満ちた様子で眉を寄せた。正にこういうところが、ハルジェニクは嫌いだった。人を蔑むのが大好きなくせに、自分は本心から心配していると思いこんでしまっている。
「私、あなたのことずっと心配していたのよ? お父上がいらっしゃるとはいえ、南東領の神殿に赴任になった時も、連合軍に加わるって知った時も」
「ストレスで追いつめられてまた何か事件を起こしたら、ってか?」
 イノイラは表情を変えずに黙った。そして、あなたのことは昔から知っているもの、と呟いた。
 昔から。昔から、イノイラが絡む記憶にはろくなものがない。この女に自分はどれほど恥をかかされてきただろう? 最も強烈に記憶に焼きつけられているのは、自分の十歳の誕生日会の出来事だ。七歳のシンクルスとロザリアも招待されていた。彼らとどういう話をしていたかは思い出せない。思い出せるのは、既に成人していたイノイラが子供たちの談笑に割りこんできて、今日でいくつになるのかと尋ねたことだ。 答えると、イノイラは腹をよじって大笑いした。
『この子、十歳にもなっておねしょしてる!』
 それで、何の気まぐれか彼女が洗濯場に行ったことが知れた。
 その日ハルジェニクのベッドシーツが干されたのは、寝汗をかいたからであり、おねしょをしたからではない。だがイノイラは子供の言い訳と決めつけて聞き入れず、シンクルスとロザリア、その妹のリアンセまでもが無邪気にくすくす笑った。
 こいつがあんなことを言わなければ……。
 いや。そんなのは言い訳だ。わかっている。だがその出来事が細い糸として、あの日起こしてしまった事件につながっているのは否定できなかった。
 自分が真っ当だった最後の日、ハルジェニクはどうしてもと頼まれて、当時十一歳のプリシラ・ホーリーバーチを馬車に乗せてやった。リアンセの四歳下の妹で、当主スレイ・ホーリーバーチの後妻との間の子だった。ハルジェニクは高等教科学校の寮に戻ろうとしていた。神学校入学への必須科目を履修できるその学校に、ハルジェニクはロザリアと共に通っていた。ライトアロー家の没落とシンクルスの投獄で、ロザリアはひどく参っていた。学校の寮から一歩も出ず、家にも帰らない。プリシラは姉を励ますために訪問しようと考えたのだ。
 時の西方領神官大将オルドラス・ライトアローの息子夫婦による国王暗殺、及び王家転覆計画がでっちあげに過ぎないことはハルジェニクにもわかっていた。証拠の捏造を祖父が画策し、父が一枚も二枚も噛んでいることにも薄々気付いていた。だからといって何ができた?
 ロザリアの力になってやりたいと思ったのは事実だ。それが全てではなく、下心があったことも自分でわかっている。ロザリアはもうシンクルスのものではなくなったのだから。自分のものにできると思った。一方で、それでも励ましてやることができればと願っていたことも確かだった。
『あなたって、そうよね』
 寮の裏庭に張り出したテラスで、さも見下げ果てた目をして、ロザリアはうんざりした声で言った。
『他人事だと思ってるの? 親切面して、人の弱みにつけこもうとする。私はリアンセの代わり? あの子にも、気が弱ってるときに接触したんですってね。私とシンクルスがが婚約した時に』こうも言った。『今私に必要なのはシンクルスなのよ。十歳にもなっておねしょしてたようなお子さまが、どうして彼の代わりになれると思ってるの?』
 頭に血がのぼり、ハルジェニクは手を上げてしまった。頬を押さえながら非難をこめて自分を見るロザリアの目に、軽蔑の色を見つけてからは、もう自分では止めることができなかった。その目で自分を見るのをやめさせたかった。どんな方法でもいい、思い知らせて、自分を軽蔑するのをやめさせたかった。
 テラスの床に押さえつけられ、組み敷かれている間、ロザリアは大声で叫び続けた。お姉ちゃん、と叫んでプリシラがテラスに駆けこみ、立ち尽くした。プリシラの後から三人の同級生が入ってきた。ハルジェニクの目から見ても、たちの悪い奴らだった。
『よう、ハル。おもしろそうなことやってるじゃねえか』
 それからは……。
 ハルジェニクは目を伏せ、しばたたいた。
「あなたが集団強姦致死事件を起こした時にね」
 イノイラの言葉に目を上げる。
「何でわざわざそういう言い方をするんだ」
「あら、だってそうじゃない」イノイラはわざとらしく目をまん丸にした。「そうでしょ? 自分の罪から逃げちゃダメよ」
 事件以来、九年もの間、ハルジェニクは気分が晴れやかになったことなど一度もない。楽しい気持ち、満たされるような気持ちを僅かでも感じかけると、ロザリアの、プリシラの、そしてリアンセの顔が思い出されて、肯定的な気分の全てが吹き飛ぶのだ。そしてそれは当然の、むしろ軽すぎるほどの報いなのだ。
 だがこの女にだけは言われたくなかった。
「私、本当にあなたに何かしてあげたいって思ったのよ。あなた、親族中の女性から一切口利いてもらえなくなりましたものね」
「それが?」
「私はあなたを守るために、あなたのご両親がどれほどの努力をなさったか知っているわ」
 イノイラがテーブルの向こうから身を乗り出してきた。声に熱がこもる。
「私、お手伝いしましたもの。ホーリーバーチ家はもちろんのこと、事件に加わった三人の学生たちだってどうにかしなきゃいけないでしょ。やってくれそうな人を探したわ」
「やってくれそうな?」ハルジェニクは眉間の皺を一層深くした。三人の名を順に思い出す。「あいつらは自主退学したはずだ。どうしたんだ? ……パーマーはどうした?」
「亡くなったそうね。急性心不全で」イノイラは冷ややかに言い放つ。「まだお若いのに、おかわいそうですこと」
「エヴァンスは?」
「彼も心臓が弱かったみたい。家族の証言が取れたんだから、確かよ」
「ペラは?」
「彼も亡くなられたと聞くわ」
「急性心不全か?」
「そうね」
 ハルジェニクはさすがにぞっとして口をつぐんだ。
「いい? あなたに弱みがあってはいけないの。万が一にも脅迫を受けるようなことがあったら……だからできることをしようとしたの。当たり前のことだけど、大変よ?」
 そして声を荒らげた。
「あのね、人が一人死んだのよ? それもあのホーリーバーチ家の。更に十一歳の子が廃人にされて。これだけのことをなかったことにするのに、どれだけかかったと思ってるの? 人手も、お金も! なのに何よ! その態度は!」
「……わかった」
 ハルジェニクは片手をあげる。諦めて、大儀そうに小切手の台紙に手を伸ばした。それをイノイラがひったくり、ハンドバッグにしまった。
「お金ならもう結構よ」
 両者が不機嫌に沈黙した。
「そろそろ本命の用件を言ったらどうだ?」
 と、ハルジェニク。
「そうね。落ち着きましょう」イノイラもあっさり応じた。「水、どうぞ。あなたが来る直前に頼んだものよ。この地方の水って甘くておいしいのね」
「近々、血に染まるさ」
 水差しから二人分のコップに水が注がれるのを無感動に見つめながら、たかが水にこの女はいくら払ったのだろうと考えた。
「ザナリス神官団か、プトラ神官団か、マフェリカ神官団か……サリナ・グレン連隊か、逃走中の反乱軍の師団か。もう染まっているかもな」
「ホテルが権利を買い取って管理している洞窟の湧き水よ。川の水じゃないわ」
 ふん、どうだか、と言いながら、ハルジェニクは水を飲んだ。確かに水を飲むと、多少気が落ち着くのがわかる。一気に飲み干した。
「もう一杯いかが?」
「いい」
「一つ確認したいのだけど」イノイラがまた眉を下げた。「あなた、私のお母様のために働いてくれるでしょう? 何でもしてくださるわよね」
「何でもする以外に選択肢があるなら是非ともご提示いただきたいね」口を拭う。「具体的には?」
「不死の禊ぎを受けていただきたいの」
「言語活性剤をのめってか?」
「そうよ」
「お断りだ」馬鹿なことを言うなという意味をこめて片手を振る。「俺だって前線にいる以上どんな死に方をするかわからんが、化け物になるのだけは御免だね」
 ハルジェニクは呆れ、うんざりした。こんなところにも救世軍の傾倒者がいる。しかも身内だ。部下や上官じゃないだけマシだと思うべきだろうか?
「ごめんなさい。じゃあ、ちゃんと正確に言うわね」
 イノイラの顔に笑みが戻った。媚びの混じる笑みだ。
「禊ぎの儀式はこれからだけど、言語活性剤をのんでいただいたことを了承してほしいの」
 ハルジェニクは意味がわからず、無表情でイノイラを凝視した。
 自分はそれを既にのんだのだとこの女は言っている。
 いつ。
 この水しかあるまい。
 だが、同じ水差しの水を飲んだ。
 イノイラももう、あの薬剤をのんだということだろうか?
 いいや、こいつは自分の体でそういうものを試しはしない。やはり自分だけに飲ませたのだろう。
 冷静でいられるのは、そんなことは不可能だと思っているからだ。
 水差しを見つめ、空になったコップに目をやる。そして気がついた。
 できる。
 水ではなく、コップに仕込んでおいたならできる。
 ハルジェニクは右手をテーブルについて立ち上がりながら、左手を口に突っこんだ。
「吐き出したって無駄よ! 活性剤はすぐに吸収されて全身に行き渡るわ! それこそ口腔壁からだってね!」
「お前ふざけんな!」
 咄嗟に口から出てきた言葉があまりに子供の喧嘩じみているので、ハルジェニクは自己嫌悪を感じた。続く言葉が出てこない。
 信じられないし、信じたくなかった。
「だって、そうするのがいいじゃない。あなた自分で言ったでしょ? どんな死に方をするかわからないって」
 ハルジェニクは絶句したままだ。
「私、あなたに死んでほしくないの」
 心の中には言葉がある。
 何故だ? 見下す相手がいなくなるからか? 恩着せがましく振る舞える相手がいなくなるからか?
「それに、間違っても化け物なんかになるんじゃないの。あなたは強くなれるのよ。今よりももっと」
「強く?」ようやく声を捻りだした。「こうしなければ? ならなかったって? 俺はこうしなければならないほど? お前、俺を馬鹿に?」
 まともに言葉にできないほど、つっかえつっかえになる。続く言葉は、やはり、「ふざけるな」以外になかった。
「あなたのためにしてあげたんじゃない!」
 ハルジェニクの怒りを浴び、イノイラは怯えを滲ませながらヒステリックな声を上げた。
「馬鹿にしているですって? 何を偉そうに! 一人じゃ自分の尻さえ拭えないくせに!」
 ハルジェニクはコップをイノイラの額に投げつけた。イノイラはショックを受けてハルジェニクを凝視する。
 あの時のロザリアの目と一緒だった。非難と軽蔑の目。
「本当の理由を言えよ」
 テーブルを迂回してイノイラのもとに歩み寄ると、彼女は椅子を引いて立ち上がろうとした。腰が引けている。
「俺のためなわけないだろう? 言え! 本当のことを!」
 イノイラが、個室のドアへと走りだそうとした。ハルジェニクは怒りに任せてその襟首を捕まえた。ワンピースの繊維が伸びる音と手応えがあった。悲鳴を上げようとするのを、殴って黙らせる。
「何よ、ハルジェニクのくせに!」イノイラはハルジェニクの顔面を引っ掻き、喚いた。「クズ! クズ! 役立たず! 生まれ損ない! 強姦魔! ハルジェニクのくせに!」
 騒ぎを聞きつけて、従業員が駆けてくる。
 その足音も聞こえぬまま、ハルジェニクはイノイラの皺の寄る細い首に、両手をかけて絞めた。

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