我が名はシンクルス!

文字数 12,324文字

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 タルジェン島東部の村、ヨリスタルジェニカの港には、時期ごとに漁師をしたり、農夫をしたり、時に港湾労働者として働く村人たちが集まっていた。男たちは漁に出ようとせず、女たちは土に種を蒔かなかった。種を蒔いても、生きてそれを世話する人間は誰もいない。無気力が村を覆っており、連絡船が到着しても、荷下ろしに掛かろうとしなかった。
 神官たちがやって来て、石垣や木の根元に座りこむ男たちの尻や背中を突いたり、軽く叩いたりし始めた。ヨリスタルジェニカ神官団に、新たに配属された神官たちであり、村人への愛情はない。村人たちの心情としても、その新しい神官たちは完全によそ者なのだが、誰も反発しようとしなかった。男たちは背中を丸め、蛸や魚を干す作業場を、足を引きずりながら通り抜けた。干物は干されたまま何日も放置されており、蠅にたかられ、猫に荒らされていた。いくつかの魚は砂にまみれて地面に転がっている。その横を、村人をせき立てる神官たちの足が気ぜわしく過ぎていった。
 ほどなくして荷下ろしが始まった。およそ二千人の村人たちの頼んだ生活物資が船倉から吐き出される。月に二度タルジェン島を通過する連絡船からは、小さな荷下ろし場が埋まるほどの木箱が下ろされるのが恒例だが、今回はいつもの半分ほども埋まらなかった。次回は更に少ないはずだ。
 滑車に牽引され、大人が五人寝られるほどの大きさの台車が姿を現した。何かの装置らしく、帆布と荒縄を用いていびつな円錐形に巻かれている。装置の木製の柱が、装置をくるむ帆布の幕から突き出ていた。男たちは汗をかきながら、台車を荷下ろし場に引っ張った。二人の神官が槍を手に、台車のもとに駆けつけた。
「待て。何だそれは」
 船主はしきりに太い腕で顔の汗を拭きながら、神官たちが持つ槍に目を注ぎ、それが恐ろしくて仕方がないとばかりに両肩をすぼめた。
「脱穀機でございます、神官様」
「脱穀機? 誰だ、そんなものを頼んだ奴は」
本土(おか)の町に、修理に出されていたものです」
 船主は、シンクルスが教えたとおりに答えた。
「持ち主は?」
「何をおっしゃいます。この脱穀機は〈灰の砂丘〉神殿の資産になります。春の年の六月の祭典で用いられるものですよ」
 神官は、縄に括りつけられた荷札を手にし、送り先が確かに自分たちの神殿になっていることを確かめた。
「春の六月の祭典? そんな祭事の予定は聞いてないぞ」
「なんだか知らんが、田舎臭い祭だろうな。だし物が脱穀機だぜ?」
「さすが僻地」
 二人の神官は大声で言って笑い、村人たちは無感情に作業を続けた。
 神官の一人が無表情になり、船主に命じた。
「ほどけ」
「とんでもございません!」船主は神官に両手を見せ、胸の前で振った。「私はその……ただ、この辺りの離島群に荷を運ぶだけが仕事でして……万一勝手に荷ほどきをして破損をしてしまっては……まして神官様にお納めするものなど……」
 彼が話している間に、神官が槍を構えた。中段に構え、ふっ、と息を詰める声と共に、帆布に突き刺した。
 だが、期待したような異変は起こらなかった。帆布に囲まれた内部の空間の静寂に耳を澄ませ、神官は急に虚しくなって槍を引き抜いた。
「……気にしすぎか。いいぞ。運べ」
 村人たちは力を合わせて台車の縄を引き始めた。今年はやけに重い、と彼らは思ったが、わざわざ口に出す元気は誰にもなかった。
 槍によって開けられた穴は、中に潜むレーンシーの顔の真正面にあった。硬直しているレーンシーの背を、レーニールが撫でている。シンクルスは彼女の耳に囁いた。
「よく堪えたな、レーンシー」
 槍は、彼女の額に突き刺さる直前で止まったのだ。レーンシーは両腕を伸ばし、シンクルスの首に回して抱きついた。哀れなほど震えている。首筋にレーンシーの頬が当たった。体が冷えきっている。レーンシーが動くとき、彼女の膝が木の台車に当たって音を立てたが、車輪が荒れた道を転がる音にかき消され、外の人間には聞こえなかった。
 車輪の音で、シンクルスは自分たちが今どのあたりにいるかを想像し続けた。港から村の中央の広場に入り、麦畑を見下ろす坂を上り、整備された神殿前の小道に入る。曲がりくねる小道を上り、裏口で神官たちの検閲を受ける。その神官は、修理に出された脱穀機が戻ってくることを心得ていた。声で、古参の神官だとわかった。名前もわかる。だが、まだ再会を果たすわけにはいかない。シンクルスは引き裂かれるような思いに苦しんだ。
 ずっと続いていた上り坂が、石畳で舗装された下り坂に変わり、車輪の音が大きく反響するようになった。いよいよ〈灰の砂丘〉神殿の地下に入ったのだ。新任神官将としてここに来た。解任されてここを去った。そして今、逆賊として戻ってきた。
 音の響きかたが変わり、広い倉庫で台車が止められた。男たちが車輪を固定する。
「今年は祭りなんて、やれんだろうなぁ」
 誰かが呟いた。
「よせや」
「こんなことになるなんてなぁ。うちのガキにとっちゃあ、生まれて初めての春だってのに」
「だからよせや」
 男はよさなかった。
「ほんの半年前までは……」
「だからもうやめろよ、辛気くせぇ」
 足音が遠ざかり、倉庫の戸が閉ざされた。ほどなくして脱穀機を包む帆布の内側から、ダガーの刃が飛び出した。刃はまっすぐ縦に下ろされて、傷のように裂け目を開いた。やがてその裂け目から、天籃石のランプの白色光が広がった。
 まずアセル、続けてシンクルス、レーニール、最後にレーンシーが台車から下りた。シンクルスは唇に人差し指を当て、決して口を利くなと双子に無言で念を押した。入り口に背を向け、倉庫の隅に三人を連れていく。そこには古い振り子時計が壁に掛けられ、眠っていた。もはや誰も鎖を巻かず、錆び付いており、その眠りは永遠のものだと誰の目にも思われるものだ。
 シンクルスは時計の扉を開け、腕をいれ、振り子の付け根に隠されたレバーを下ろした。時計の裏側のその部分には穴が開けられており、装置をいじれるようになっているのだ。壁の奥から、掛け金の外れる音がカチリと聞こえた。シンクルスは握ったままのレバーを強く奥に押した。石を貼りつけられて壁と同化した扉が、重々しく開いた。
 ひどい黴の臭いが四人の鼻を刺した。シンクルスは、三人に先に入るよう促した。自分が最後に装置から手を離し、隠し通路に身を滑らせた。そして、カチリと同じ音をさせて完全に扉を閉めた。
 手にした天籃石のランプを開け、白く光る石の一つを取り出しレーンシーに握らせた。まっすぐ続く狭い通路は、むき出しの岩盤になっている。二分も歩くと突き当たりに着いた。左手に、下への梯子が闇へ伸び、右手には、頭上の暗がりへ梯子が伸びていた。
「俺と中佐殿はこの梯子を上る。そなたらは左の梯子を下りたところで待っていてくれ。下水路に通じている。待つのにあまり良い環境ではないが……」
「わかりました」レーンシーが従順に頷く。
「待ってください」と、レーニール。「万一……万一あなた方が戻らなかった場合は?」
 シンクルスは奥歯に力をこめ、レーニールの目をまっすぐ見返した。意図せず、彼と覚悟を分かちあうこととなった。恋人を殺した男の親族と。
「……下りた先の通路を、常に下水の流れを左手に見る形でまっすぐ歩くがよい。橋がいくつもあるが、どれも罠だ。渡ってはならぬ。ただまっすぐ、道なりに歩くのだ」
 言われた内容に意識を集中し、返事を遅らせたレーニールに背を向けて、シンクルスは上りの梯子に手をかけた。足の下にアセルがついてきた。
 最初の梯子を上りきり、手すりのない、歩幅ぎりぎりの通路に出たところでアセルが尋ねた。
「この通路はどこに通じている?」
「どこにでも、いたる所だ」
 シンクルスは左手を壁につけて歩きながら答えた。手をつけても、万一足を滑らせた際に掴むべき物は何もないが。
「だが、今回は二位神官将の執務室に向かう。ダミーの暖炉がある。それに、もし二位神官将と出くわしても、彼なら味方になる」
 アセルが黙っているのは、その甘い見立てを信じたからではなく、いざとなったら二位神官将を殺す気だからだとシンクルスにはわかった。
「……いずれにしろ、中佐殿、いずれの場合にも……俺はためらわぬ」
「是非そうあってほしいものだな」
「宙梯から、今まさに夜であるはずの太陽の王国に逃れたところで、一時しのぎでしかなかろう――」
 細い通路と、底の見えない闇から意識を逸らすべく、シンクルスは話し続けた。
「あの二人の話が真実であれば、我々は言語崩壊を阻止する薬剤と、その製法、または製法を復活させるための研究内容と研究所と、研究員を奪わなければならぬ。連合軍が我々から、宙梯へ向かう船と航路を奪おうとしているように。希望のためなら、ためらわぬ」
「希望、などということはあまり考えるな」アセルは乾いた声で、半ば呆れたように言った。「思い詰めたり、力まずにな。仕事だからやる。淡々とやれ。それくらいが丁度いい」
 正確に通路を歩き続け、ついぞ二位神官将の執務室の真下にたどり着いた。正方形の通路を這って進み、突き当たりで仰向けに姿勢を変えると、腕をまっすぐ上に突き出した。鉄格子と藁で封じられた暖炉の床部分が持ち上がり、藁くずが顔の上に落ちてきた。耳を澄ませたが、物音はなかった。少しずつ蓋を押し上げ、なおも気配がないと見るや、思い切って跳ね上げた。
 生活のにおいが、光とともに降り注いだ。シャンデリアに刺さる蝋燭の燃えるにおい。羊皮紙とインクのにおい。茶のにおい。仰向けの姿勢から両腕を使って体を起こし、室内の様子を観察した。茶のにおいがするということは、先ほどまで在室していたのだ。すぐに戻ってくるかもしれない。立ち上がり、無駄な物が何一つない室内に、暖炉の柵をまたいで踏みこんだ。執務机のティーカップに手を当てると、中の茶はまだ温かかった。
 机は整然としており、二位神官将の几帳面な性格が表れていた。インク壷の隣にただ一枚出しっぱなしにされている、折り畳まれた紙を開くと、ヨリスタルジェニカ神官団の各神官の、今月のスケジュールが記されていた。
 シンクルスは現在の正位神官将の名を確認し、読み上げた。
「ナナル・カイユ」
「知り合いかね?」
 出てきたアセルが暖炉を直しながら尋ねた。
「ヨリスタルジェニカ神官団の現在の正位神官将だ。この名前……この男、リジェク神官団の」
「連合側についた神官団だな。北部の」
「連合側に、というより救世軍にであるな」
「その名前、知ってるぞ。オレー前神官大将の捕縛に関与した疑いがある」
 アセルの目が、部屋の入り口に動いた。ほとんど駆け足で執務机に近付くと、シンクルスの腕を掴んだ。
 二人は一緒に机の陰にしゃがみ、隠れた。
 扉が開いた。姿は見えないが、部屋の中ほどまで人が入ってきて、息をのむのがわかった。足音を立てて絨毯を踏み、暖炉に駆け寄る。アセルが音もなく立ち上がる。シンクルスはアセルの後ろから、暖炉を覗きこむ人物の後ろ姿を確認した。神官服を着た、灰色の髪の老人。
 フェイメリィ・バドゥルー二位神官将。シンクルスの、かつての腹心の部下。タルジェン島出身の神官で、島への愛着は人一倍強い。歳は六十を過ぎている。彼が二位神官将の地位に三十年も留まっているのは、地球人の血が流れていないために、正位神官将への就任を許されていないからだ。また、正位神官将としての経験がなければ、いずれかの神官の組合に次の職を求めても、要職には就けない。
 三十年、だから彼はひたすら島のために働いた。
 その男が背後の気配に気がつき、振り返ろうとした。片膝をついて暖炉を(あらた)めていた彼に、アセルが覆い被さる。
 その口を塞いだ。
「静かにしろ」
 今度はシンクルスが立ち上がった。
 二位神官将フェイメリィは、暖炉の異変に驚かされ、背後から捕らえられたことに驚かされ、更に今、シンクルスの登場によって驚愕を極めた。シンクルスはまず二人を素通りし、部屋に鍵をかけた。再び戻ってフェイメリィの前に立つと、驚きは失せていた。代わりに懐かしむような、待ちわびていたような、また何かを案じ、己の、神殿の、島の、あらゆる運命に思いを馳せ、無力を知り、諦める色を見せていた。
「フェイメリィ……驚かせてすまぬ。俺の話を聞いてくれぬか。中佐殿、彼を離してくだされ」
 フェイメリィが頷くのを待って、アセルが手を離した。二位神官将は立ち上がると、衣服の乱れを整えた。そして、頭のてっぺんから爪先まで、シンクルスの様子を観察した。その目に慈愛が宿る。フェイメリィよくこの目をした。歳の離れた息子を見るような目だ。
「正位神官将様……」フェイメリィは、皺の寄った枯れた手を、シンクルスに差し伸べた。「いかがお過ごしでしたか。お怪我はございませんか? よくぞこの……」
 その手首をアセルが捕らえ、フェイメリィがシンクルスに触れないようにした。シンクルスは痛ましく思いながら、用件を伝えるべく口を開いた。
「フェイメリィ、すまぬ。苦労を強いた。そのうえ更にこれから苦労を強いることになる」シンクルスは口を挟ませず、続きを一気に言った。「俺はこれより、逆賊としてこの〈灰の砂丘〉神殿を乗っ取る。正位神官将の座を簒奪(さんだつ)するつもりだ。連合軍が民の救済など目指しておらぬ以上、連合側についても島の民に待ち受けるは悲惨な運命のみだ。フェイメリィ、そなた、島の民を守る心づもりはあるな」
「簒奪めされると」フェイメリィは首を大きく横に振った。「恐ろしい、恐ろしい! 何もそのような。私といたしましても、あなた様のご要望であればできる協力は惜しみませぬ。ですがそのような手段となると」
「手段を選んではおれぬのだ! フェイメリィ、我々には、言語生命体には、もはや時間は残されておらぬのだ。……そなた、今ここで行動を躊躇したばかりに、もし」唾を飲み、間を空けた。続く一言の効果を高めるために。「もし、タルジェン島の民が皆、死……のみならず……生きながら食われる『食糧』にされたら、悔やんでも悔やみきれまい」
「食糧ですと?」
 この二位神官将は、今日一日で何度驚愕に身をさらさねばならぬのだろうとシンクルスは不憫に思った。この島で平和に余生を過ごすつもりの人生だったはずだ。
 尊大な足音が、廊下を執務室へと近付いてくる。
「お隠れください」
 言われるまでもなく、シンクルスとアセルは執務机に駆け寄りしゃがんだ。同時に扉が開いた。
 フェイメリィが、部屋の真ん中で声をあげた。
「三位神官将殿。これは……」
 ねっとりした男の声が応じた。
「二位神官将殿、何を突っ立っておられたのですか?」
 あまり性質の良い人間ではないと、喋りかたでわかる。シンクルスは息を殺し、耳を澄ませた。
「ただ、海を……」フェイメリィが咳払いをした。「休憩中でしてね。息抜きには、こうしているのが一番です」
「海ですか」
 部屋を歩き回る音に合わせて、新任の三位神官将の声も移動する。
 もともとヨリスタルジェニカにいた三位神官将は、シンクルスと同年代の若い男だった。初めのうちこそ自分のキャリアがこの僻地から始まることについて不満げな様子だったものの、シンクルスがオレー大将の指示によってタルジェン島を去るときには、もし連合側につかなければならなくなったら三位神官将の座を返上する、と息巻いていた。どうやら実行したようだ。
「何が楽しいのか、私にはわかりかねますね。(いさ)り火でも浮かんでいれば、まあ目を休めるのにはちょうどいいんでしょうけど。村人たちはやる気もないし、海も村も真っ暗」
「三位神官将殿、私はそろそろ業務に戻りますので」
 フェイメリィが遮った。
「ええ? 何だか今日はつれないですねぇ」
「自分の立場をわきまえなさい」フェイメリィが口調を変え、ぴしゃりと言い放つ。「君には君の仕事があるはずだぞ。先任の正位神官将の追跡の件はどうなっている?」
「ああ、ライトアロー家の生き残りだという、あの?」三位神官将はへらへら笑い、悪びれもせず言い放った。「ソレスタス神官団が雇った刺客がしくじって以来、進展なしです。雇い主の神官将が失踪して以来、雇われたほうも出方を待ってるようでしてね」
「何故ソレスタスに丸投げした。君は何もしなかったのか」
「しましたよ、ほうぼう手を打って。でも一度、トリエスタの西の街道沿いでそれらしき人物を見かけたという情報を最後に、消息不明でして」
「協力者がいるらしいと言っていたな。それについては」
 返事は聞こえなかった。フェイメリィが続ける。
「どうやらリジェクから来た神官たちは、口ほどでもないようだな」
「ひどいですねぇ」
 足音が近付いてくる。
「二位神官将殿は、地図をご覧になったことあります? 島からほとんど出たことがない人にはわからないかもしれませんけど……」
 シンクルスとアセルが隠れる執務机に、足音の主、三位神官将が並んだ。
 三位神官将のローブの裾が視界に入った。彼は二人の目の前で、机を通り過ぎ、窓辺に立った。窓を向いている。
「南西領って広いんですよぉ? この」振り返る。「海みたいに!」
 両腕を広げた。
 三位神官将は、何か視界におかしな物が入った、とばかりに、机の陰にしゃがむシンクルスとアセルを見た。シンクルスもまた三位神官将を見た。三十手前の男だった。目が合った。三位神官将はにやついた顔のまま固まった。
 アセルが、足をバネに立ち上がりながらダガーを振りかざした。シンクルスも立ち上がり、折り畳み式の槍を抜いた。振り回し、連結点を結合させ、中段に構えて三位神官将に襲いかかる。
 三位神官将はあまりの展開に声もあげなかった。槍の穂先が三位神官将の衣服、皮膚、薄い脂肪の層を破って右の脇腹を刺す手応えをシンクルスが得た時既に、アセルのダガーが三位神官将の喉を刺していた。また、フェイメリィも銀に輝くナイフを手にしていた。駆けつけた彼は、三位神官将の左の脇腹を刺した。
 ほぼ同時に同一方向への力を加えられた三位神官将は、目をむいてたたらを踏み、後ろによろめいた。彼の背中が大きな窓にぶつかったとき、まだ三人の武器は彼の体に刺さったままで、攻撃の勢いも残っていた。彼は三人がかりで窓に押さえつけられる形となった。
 窓が耐えきれず、破れた。割れたガラスの破片のきらめきと共に、血をリボンのようになびかせながら三位神官将が転落していく。
 間もなく下で叫び声が放たれ、騒然となった。気配が集まってくる。
「神官将様、どうか逃げてくだされ」
 フェイメリィが悲痛な声で言った。暖炉へ急ぎ、自らの手で隠し通路への蓋を持ち上げる。
「さあ、早く」
 シンクルスはまだ呆然として、槍を携えたままフェイメリィの心情を量った。
「そなた……」
「お急ぎを! 私の身を案じてくださるのなら、本懐を果たしてくだされ!」
 その一言が、シンクルスに覚悟を決めさせた。彼は一人で三位神官将殺害の罪の報いを受けるつもりだ。
 それを防げるのはシンクルスだけだった。
 正位神官将を打ち倒し、神殿を乗っ取って、防ぐのだ。
「すまぬ!」
 シンクルスは槍を畳まずに、隠し通路に飛びこんだ。狭い通路を這い進み、立ち上がれる場所まで来ると、シンクルスが通路に置き去りにしたランプを回収したアセルが追いついてきた。
「で、クルス、どうするつもりだ?」
 質問というよりは、確認の口調だった。
「このままでは二位神官将の身が危ない。正位神官将を見つけ出し、直ちに決闘する」
「そいつの居場所にあてはあるのか?」
「ない。古参の神官に協力させる! それでよいな、中佐殿」
「私に許可を求めるな。君のやり方でやれ」
 シンクルスが前に立ち、いくつもの通路を渡り、梯子を下りた。
「中佐殿、俺のやり方がどのような結末を迎えようと、決して手出しをなさるな」
 エントランスの真上に来た。梁を渡る。天井板越しに、神官たちの騒ぐ声が聞こえてくる。
「あの双子と、二重天球儀を頼む。代わりに緑の島を目指してくだされ。俺の代わりに!」
「神官将様! 四階です!」天井板を隔てて、そう叫ぶ声が聞こえた。「二位神官将の執務室です! お急ぎを!」
 シンクルスは返事を待たずに、エントランスのシャンデリアの上にある排気口の蓋を外した。眼下にシャンデリアと、床を覆うモザイク状の白と黒のタイルと、その上に散らばる見知らぬ神官たちと見知った神官たち、彼らの間を急ぎ足で通る、正位神官将の神官服に身を包んだ男の姿が見えた。まだ誰も頭上にいるシンクルスには気付いていなかった。
 シンクルスはシャンデリアを吊り下げる鎖をつかみ、エントランスにいる正位神官将の後ろに飛び降りた。鎖はどうにかシンクルスの重みに耐えた。シャンデリアが頭上で大きく揺れ、ガラス片がぶつかりあい、音をたてる。
 踵に鋭い痛みが走ったが、シンクルスはどうにか前のめりにつんのめったり、みっともなく転ぶのを避け、格好のつかない登場となるのを避けた。
 シンクルスの四方の神官たちが沈黙した。沈黙は全包囲に広がり、エントランスを満たした。鎖の揺れる音、シャンデリアのガラスの触れあう軽い音が、神官たちに降った。
 正位神官将の男が、ゆっくりと振り返った。
下手人(げしゅにん)は我なり!」
 シンクルスがこの場にいる神官の半数を知っているのと同様、この場にいる神官の半数がシンクルスを知っていた。どよめきが起こったが、それは古参の神官たちの独り言に留まり、神官たちの口から口へと広まりはせず、やんだ。
「我が名はシンクルス! ヨリスタルジェニカ〈灰の砂丘〉神殿の正当なる正位神官将である! オレー前神官大将を(しい)した逆賊よ、その――」
 詰まった。
「その――」
 咄嗟に台詞が思いつかない。
 カイユという名の現在の神官将は、経験の豊富そうな四十代の男だった。リジェク神官団は、かつての戦争で南東領や西方領で武力を奮ったことがある。この男も従軍したはずだ。技量も、経験も、自分よりずっと上のはずだ。
 その男が何ら緊張せず、半ば呆然とし、半ば馬鹿を見るような目で自分を見ているのに気付き、シンクルスは急に恥ずかしくなった。白々しさが胸を撫でる。
「……ええい、長広舌はよい! とにかくナナル・カイユ、そなたを(ちゅう)し正位神官将の座を返してもらう!」
 顔を赤くし、槍の穂を突きつけるシンクルスから、カイユ正位神官将は隣の神官へと目を動かした。
「……こいつ誰だ?」
 古参の男性神官が、やる気なさそうに答えた。
「今名乗ったじゃないですか」
「あー、うん」カイユは四度、五度と頷いた。「そうだな、うん」
 シンクルスは緊張や恐怖ではなく、恥ずかしさという全く予期していなかった感情によって、この場から逃げ出したくなった。何故このような流れになったのか……とにかく、腰を落として槍をしっかりと構え直した。
「ああ、つまり、さっき三位神官将を殺したのはお前ってことだな」
「左様!」
「で、俺と戦って正位神官将の座を奪い返すと」
 シンクルスは返事をしなかった。
 ナナル・カイユは部下たちに、シンクルスを捕縛するよう命じることもできた。だがそうはしなかった。
「誰か槍を貸せ」
 挑まれた決闘を拒むのは、不名誉と考えられる。彼は名誉にこだわるたちではなさそうだった。神官服の着こなしがだらしなく、髪もぼさぼさで、無精ひげが生えている。名誉ゆえに決闘に乗る男には見えない。ただ、無粋ではないのだろう。警備に当たっていた神官が、カイユに槍を渡した。カイユは先ほど質問に答えた男性神官を、「俺がこの決闘に勝ったら後で覚えてろよ」とばかりに睨みつけて、シンクルスとしっかり向き合った。
 正位神官将と元正位神官将を囲む円が、更に広くなった。
「俺はあんたに恨みはない」立てて持っていた槍を寝かせ、カイユは両手で持ち直した。「だが、あんたは俺を恨んでいるようだな」
「オレー前大将の捕縛に関しては、そなたはそなたの職務を全うしたのみであろう」と、シンクルス。「ならば俺も俺のすることをするのみ。恨みはないが、決闘は受けてもらう」
 カイユは頷いた。沈黙が、決闘の開始を促している。シンクルスは槍を中段に構えて相手の出方を待った。
 カイユはゆっくり左足を踏み出し、膝を曲げ、姿勢を前に倒した。ほとんど床につきそうな位置まで穂先を落とす。下段の構えだ。上目遣いにシンクルスを睨みつけている。
 二人は瞬きもせず、互いの呼吸を探った。
 カイユの上腕が一瞬動いたように見えた。錯覚かもしれないが、シンクルスは冷静な判断を待たずに大きく踏みこんだ。左肩を狙い、突く。カイユは槍の下に肩をくぐらせて回避し、同時に自分の槍を上げて、シンクルスの槍を大きく上方向に押しのけた。槍の柄と柄がぶつかり合う音が耳に届く頃には、カイユの槍の穂先はシンクルスの右目の前にあった。
 シンクルスは首を左に倒しながら後ろへ跳び、どうにか串刺しを避けた。カイユが更に踏みこんで、二度目の突きを与える構えを見せた。シンクルスは自分の槍から左手を離し、踵を使って体を回転させた。右手だけで持つ槍が、時計回りに大きく円を描いた。かなりの速度が出たが、カイユを打ち据えることはできなかった。左手と、一回転を終えた槍を頭上にやり、もう一度両手で槍を持ち直した。
 カイユはがら空きになったシンクルスの腹を貫こうと、槍を中段に構えていた。シンクルスは、今度は縦方向の半円を描いて槍を振り下ろし、カイユの槍を叩き落とそうとした。
 その攻撃は、命中する直前で回避された。降り下ろされたシンクルスの槍の真横で、カイユの槍が高く上がる。シンクルスは右足を軸に、体を半回転させた。顔の横を、カイユの槍が掠めた。風の唸りが鼓膜を震わせ、シンクルス自身の振り回す槍の音が、その音を上書きした。
 二人の頭上で、再び槍がぶつかり合い、交差した。
 カイユが交えたままの槍を水平に寝かせ、シンクルスの顔を突こうと狙う。
 シンクルスはしゃがんだ。交差した槍の力の均衡が崩れ、シンクルスの槍の穂先は、カイユの槍の柄に沿って、彼の胸へと滑った。カイユが驚いて足をあげる。その足に左肩を蹴られ、シンクルスは仰向けに倒れたのち、自ら床の上を転がり、間を空けた。
 床に、カイユの槍の穂がぶつかった。タイルが欠け、かけらが散る。
 片膝立ちの姿勢で、目の前にあるカイユの左足を叩くべく、槍を右から左へ振った。カイユの槍が縦に構えられ、防ぐ。その反動を受けながら、シンクルスは立ち上がった。
 シンクルスはもう一度、カイユの左足を狙い槍を振った。下段に構えたカイユの槍が、またもそれを弾く。
 カイユはシンクルスの槍を弾いた勢いで自分の槍を跳ね上げ、シンクルスの頭頂を殴るべく振り下ろした。今度は素早く上段に構えたシンクルスの槍が、彼の攻撃を弾いた。
 今度はシンクルスが、カイユの目を見つめながら、槍を水平に寝かせ引いた。カイユがシンクルスの槍を払いのけようと、自分の槍を引く。
 だがシンクルスはカイユの目を狙わなかった。
 槍を跳ね上げ、精一杯の早さで頭の後ろに振りあげる。
 そして、右足を踏みこみながら、槍で守られていないカイユの額に打ちこんだ。
 固い手応えがあり、それで、攻撃が当たったことを確信した。
 戦闘の興奮で、シンクルスの脳は、目の前にあるカイユの顔をよく観察することを拒否した。敵の槍が振られる気配がないことと、敵の槍が床に落ちる音が、まず情報として適切に処理された。続けて、敵がゆっくり両膝をつく気配が処理された。シンクルスは何度も瞬きした。カイユが脳震盪を起こして呆然としており、膝をついたままでいると理解できるまで、ただ瞬きだけを繰り返した。
「シンクルス様」誰かが後ろで囁いた。「シンクルス様」
 びくりと震え、シンクルスは弾かれたように振り向いた。よく知っている神官が、いつの間にか真後ろにいた。
「捕らえよ」
 シンクルスはどうにか息と声の震えを殺しながら、振り絞るように命じた。
「この者と……この地に……新しく配属された者をすべて、捕らえ石塔に幽閉せよ! 我はただ今より当神殿の正位神官将である!」
 エントランスの扉が盛大に開かれ、フェイメリィが飛びこんできた。彼はシンクルスが生きて立っているのを見ると、ふらつき、腰を抜かしそうになった。シンクルスは続けた。
「皆、我に従え! 此度の件はまだ外部に知られるわけにゆかぬ! 然るべき時まで、新しき神官たちをみな捕らえるのだ!」
 古参の神官たちの大部分は困惑しながら、また一部の神官は嬉々として、シンクルスにとって知らぬ顔の神官たちを跪かせていった。
「神官将様」フェイメリィが、前のめりによろめきながらシンクルスのもとにやって来た。「神官将様、よくぞ……」
「心配をかけた」
「お着替えください、正位神官将様。その旅装では格好がつきませぬ。すぐにご用意いたしますゆえ……」
「フェイメリィ、聞いてくれ。俺はすぐここを出なければならぬ。このような手段を取ったのは、ここから『我々の緑の島』へ渡る手配をしていただきたいからだ」
「我々の緑の島? あの禁足地の……なにゆえそのような」
「詳しくは言えぬ。だがそこに、前総督公の戦略の(かなめ)となるものが隠されておるのだ。ひいては我ら言語生命体の未来そのものが……頼まれてはくれぬか。すぐにだ」
 フェイメリィの顔が和らいだ。シンクルスの無事を、紛れもない現実として、ようやく受け入れたのだ。いたずらっぽい光を目に浮かべる余裕さえ見せた。
「お願い、ですか? 神官将様」
 シンクルスは、おや? という目で部下を見返した。
 それから意を汲み、言い直した。
「いいや……命令だ」
 シンクルスは微笑んでいた。しかし、目には強い意志の光があった。

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