学院蹂躙

文字数 9,197文字

 2.

 トリエスタの外れには、女子修道学院が存在する。外れといっても馬車で二時間の距離だ。その馬車道を、シンクルスとアセルは並んで歩いていた。
 アセルの左の頬は、マチルダの手の形に赤くなっている。シンクルスはついまじまじと見つめてしまった。アセルが睨む。
「何がおかしい」
 吹き出すシンクルスに何も言う気が起きず、アセルは盛大にため息をついた。
 馬車道は雪解け以来一度も補修されていないらしく、がたつき、タールが塗られた舗石の間からは雑草が伸びている。
「よくわからんのだが」
 アセルは話題を振り、シンクルスの笑いを止めさせた。
「修道士ってのは普段何をするのが仕事なんだ? 慈善活動の炊き出しをしている姿しか見た事がないのだが……」
「簡単に言えば、禁識や機密に関わらない雑務全般を請け負っている」
 シンクルスは恐妻家の親友に機嫌よく答えた。
「経理や総務などの事務、または神殿内の禁足領域以外の清掃や給仕、城下の子供への識字教育、戦争があれば従軍し看護を行う。しかしやはり、神殿という性質上、誰でも修道士として雇い入れられるわけではないな。修道学院に入る時点で家庭調査が行われる」
「家柄が第一、か」
「そういうわけでもないが……」
 トリエスタ女子修道学院は、オレー前神官大将の孫にしてシオネビュラ評議会議員ララミディア・コストナーの出身校だった。卒業後、彼女は個人的に修道学院に出資を行い、また貴重な蔵書を提供している。慕われる卒業生だと聞く。
 トリエスタの歴代の有力者を祀る霊廟に出た。低い塀と、納骨所を兼ねた細長い作りの礼拝所が、道に沿って続く。遥か昔は地球人の血を引く統治者の魂を祀るものだったが、時代が下るにつれ、普通の言語生命体の有力者も祀られるようになった。
 シンクルスは、地球における宗教を一通り学んでいた。地球人から見れば、言語生命体の宗教は、およそ整合性の取れていない不条理なものに見えるだろう。
 言語生命体の宗教は、一神教によく似た多神教であると言われる。地球人を神と崇め奉るよう強要されても、その地球人は一個の存在ではない。ばらばらの個人だ。その事が、神の言葉として絶対の権威を持つべき聖典に様々な解釈の余地を与え、新興宗教の温床となった。『真理の教団』が引き起こした数々の悲劇や『救世軍』の台頭。夜の王国の歴史には、それと似た事例は幾らでもある。彼らは単に歴史のループを体現しているだけだ。真理を体現した事例はないし、これからもないだろう。
 そして、言語生命体は心の底では地球人を憎んでいる。
 決して声高に主張されることはない。しかし歴史的偉人が亡くなった時、彼は神になった、と言語生命体は口にする。多神教的な神である。または星になったと言う。いずれにしろ、聖典にあるように、アースフィアの裏側の太陽の王国で神人=地球人の高貴なる下僕になったなどとは思おうとしないのだ。この点については、神官たちでさえ民衆を従わせるのを諦め、時間をかけて死後の魂の行方について柔軟に民衆にあわせなければならなかった。
 言語生命体という生物種の心の中には、地球人ではない『真の創造主』への渇望がある。地球人を創造した神への憧れが、神や霊なるものに対するおおらかな感受性を育み、人智を超えた存在があるという思想をごく自然に受け入れる下地になった。
 シンクルスは神官だからわかっている。地球人が言語生命体に対する加虐者であり、差別者である事を。例えその事実を聖典という名の出来の悪い物語に隠しても、地球人の傲慢と醜く肥大した自我は隠しきれぬ事を。つまり、結局誰も地球人を信仰などしないということだ。
「家柄が第一といっても」
 シンクルスは話を続けた。
「結局よほどの名家でない限り、当の神官たちでさえそのような事は気にしない。むしろ自らひけらかせば馬鹿にされる。陸海軍の世界では違うようだが」
「君たちのように地球人の血を引いた上で、家柄がどうのと言うわけではないからな」
 君たち、という言葉を、彼が恐らくは無意識に選んだ事にシンクルスは驚いた。血統という意識は、言語生命体の意識に深く刷りこまれている。
「優生主義とでもいうか……戦士階級の貴族階級への憧れは昔から指摘されていることだ。生まれつき優れているのだから優遇されるべきだという思想はある。だから別に血統をひけらかしてもおおっぴらに非難されはしない。まあ、つまりコンプレックスだ。血統を主張したところで地球人の血が入っているわけではないからな。だからますます主張する」
「……そう。地球人の血を引く家系のほとんどが、夜の王国の歴史の始めに神官の家系となった」
 シンクルスはつい、アセルから顔を背けた。
「それに、いくら血が混じっていようと地球人は言語生命体を信用などしない。奴らにとって『俺たち』はただの雑種だ。それ以上の意味はない」
「ふん。雑種か」
「自虐ではない。地球人にとって言語生命体は……どのような血が流れていようと関係ない。実験室の、ガラスの器具の中で生まれた新種の生き物だ。猿……いや、それ以下だ。猿は自然界に存在するからな。地球人から見た俺たちなど新種のウイルスと同程度だ。あるいは人形……。作られた命とはそういうものだ」
 アセルは鋭い視線を注いでくる。彼はもともとそういう目つきだが、シンクルスには自信がない。話題が悪いのかもしれない。
「だから彼らは言語生命体を閉め出せる聖域を作った」
 この旅の目的へと、話題をスライドさせる事にした。
「『我々の緑の島』もそうだ。立ち入るには特別な鍵がいる」
 これこそが、今トリエスタ女子修道学院に向かっている理由だった。『我々の緑の島』に隠されたという、宙梯への航路図。その隠し場所が明示されていない事が、二人にとって問題だった。もしも特別な鍵を要する建物――地球人の療養所に隠されたとしたら、鍵を持たずに島にたどり着いても無駄足になる。
 鍵というのは、夜の王国から失われた地球文明の遺物全般を指す。機密のレベルの高いものは各神殿に隠匿されているが、そうではないただの装飾品などは、神学校や修道院に収められ、時に一般公開される。
 トリエスタ女子修道学院にも、そうした鍵があった。どういった品物かはわからぬが、当たってみる価値はある。つまり、身分を明かし、借り受けるよう交渉するという事だ。
 危険を冒すのは恐ろしいが、必要だと認めざるを得なかった。ララミディア。彼女も危険を冒してシンクルスに接触し、刺客の存在を教えてくれた。ララミディアが今どこにいるのか、どうしているのか心配だったし、修道学院に行けば彼女の消息の手がかりがあるかもしれなかった。昨日の話し合いで最初に決めた行き先が、トリエスタ女子修道学院だった。
「ところでクルス、前々から疑問なのだが」
「何であろうか?」
「地球人は言語生命体から銃火器を取り上げて、無力化させた。それはわかる。自分たちに武器を向けるかもしれんからな」
 アセルは肩を竦め、両腕を広げた。
「だが何故剣や弓矢を作る技術を与えたんだ? 何故戦争そのものを禁じてしまわなかったんだ? やろうと思えばできたはずだ。内輪で戦争をし続けろということか? だとしたら何故だ?」
 シンクルスはすぐに答えられなかった。
 言語生命体は神たる地球人に比べて知性と品性が劣るから、戦争の災禍はその罰だ。
 戦争を廃する事ができれば、言語生命体は神の許しを得る事ができる。
 夜の王国の子供たちなら一度は聞かされた訓話だ。大人になっても同じ訓話を振りかざす、好意的に表現すれば極めて純粋な反戦主義者たちも存在するが。
 その極めて純粋な大人たちが決まって口に出すのが、かつて言語生命体は戦争の廃止に成功しかけたという、裏付けに乏しい主張だ。
 かつて言語生命体は、地球人の高度な文明を知っていた。先祖たちは暴力をふるい、血を流し、人を殺める文化に慣れていなかった。敵対者の心身を制圧し、自由と権利を奪う事に慣れていなかった。倫理的禁忌の重圧は今と比較にならぬほど圧倒的だった。加えて彼らは、銃砲という装置を用いて遠距離から他者を殺害する手段を奪われ、自ら血を浴び、自らの手に殺人の手応えを味わわなければならない刃物を与えられた。
 天球儀建造時代がおよそ三百年。夜の王国における地球人による文明退化指導期間がおよそ二百年。地球人が太陽の王国へと撤退し、主権が言語生命体に移ってから百年ほどの間、つまり今から九百年ほど前までは、内戦の記録はない。武器が消えれば戦争は消えるというおめでたい思想は束の間の勝利を得た。だが統治者たちは、神官たちの領域から暴力による問題解決の手法を盗みとった。決闘だ。今日、神官団では兵長から、陸海軍では少尉から決闘の権利が与えられるが、その制度は九百年前に確立したものだ。
 退化した文明は暴力を呼び、暴力は倫理を退化させ、倫理の退化は行動様式の退化を招いた。決闘は復讐を呼び、復讐は集団戦の形で現され、間もなく軍隊は強大になった。皮肉にも、文明に不釣り合いな大道路や古農場といった存在が軍事力増大を支えた。かくて恒久平和の夢は潰え去った。
「退化した武器を与えたのは、言語生命体が独自に兵器を開発する恐れがあったからだ。地球人は言語生命体には戦争を止められない事をわかっていた」シンクルスは呟きながら、質問への回答の糸口を探した。「俺は地球人が好かぬ。神を気取り、まるで駄々っ子におもちゃを与えるかのように武器を与えて……」
 隣でアセルが立ち止まった。シンクルスの体の前に腕を突き出し、前進を阻む。
「中佐殿?」
 シッ、と鋭い息の音を出し、アセルはシンクルスを黙らせた。目を丸くして首を傾げるシンクルスを見ず、黙って行く手を顎で指した。天球儀のほの白い光の下に、女子修道学院の学び舎が黒く横たわっている。
 シンクルスは学び舎を凝視したが、何がアセルの気を引いたのかわからなかった。
「何だ、中佐殿……」
「鐘楼を見ろ。鐘がなくなっている」
 シンクルスは鐘楼を探した。長く連なる建物の屋根の端に、それはあった。言われて初めて、起床から終業までの時刻を告げる鐘の不在に気が付いた。四角い柱に守られた空間は、ぽっかりと空洞だ。
「風見鶏もない。掲揚場を見ろ。正面だ」
 国旗、領旗、校旗を掲げる柱のてっぺんからは、夜の王国と呪つ炉の天領地の紋章が取り除かれていた。そんな所に気付くとはさすが情報士官といったところだが、感心している場合ではない。シンクルスは心拍が上がっていくのを感じながら囁いた。
「略奪にあったのであろうか?」
「そのようだな」
 金属は金にはなるが、重くかさばる。金属製品を盗んだ賊がいつまでも留まっているとは思えぬが、用心に越した事はない。アセルは唾をのんだ。
「慎重に行こう」
 二人は肩を並べて学院に近付いた。石造りの校門からは、校章が取り外されていた。前庭の芝生には椅子や机が散乱し、彫刻からは銘盤が外され、花壇は踏み荒らされている。人の声は聞こえない。
「既に打ち捨てられているのであろうか」
「いいや、それなら全部の窓にカーテンをしていくのは不自然だ。何かを隠そうという心理がある。それか、隠れようとしているか……」
 シンクルスは校舎の前階段を上がり、無意識に扉のノッカーを探した。だがノッカーも奪われていた。やむなく手の甲で扉を叩く。
「頼もう! どなたか……」耳を澄ます。「どなたか残っておられぬか!」
 ノックを続けた。
 扉の向こうで何かが動く気配を感じた。ノックをやめる。耳に意識を集中するも、気配は続かなかった。
「私はララミディア・コストナーと(えにし)ある者だ! どなたか――」
 はっきりと衣擦れの音が聞こえた。女だ、と何となく思った。扉の向こうに確かにいる。声をかけてはこない。様子を窺っているか、逡巡しているかどちらかだろう。
「開けてくだされ」言葉を重ねる。「どうか……頼む」
「どなた?」
 ついぞ返答があった。
 やはり女だった。老人だ。知性的な、だが憔悴しきった声だった。声は続けた。
「お名前を頂けますか?」
「フェイメリィ・バドゥルー」
 咄嗟に〈灰の砂丘〉神殿二位神官将の名を答えた。
「コストナー殿の身を案じ従者を連れて参った。問題が起きているのなら解決に力添えさせて頂きたい。ここを開けてくだされ」
「ミス・コストナーの……」
「そうだ」
 早口になりかけるのを抑える。
「彼女の個人的な友人だ。消息を知りたい。シオネビュラを空けておられるようだが――」
「ミス・コストナーは……」
 扉の向こうの女は、声を震わせ、詰まらせた。言い直す「ミス・コスター……」今度はつっかえ、言い間違えた。動揺しているのだ。
 シンクルスは最悪の答えを覚悟した。
 そして、覚悟の通りの回答が聞こえた。
「ミス・コストナーは亡くなりました、ミスター・バドゥルー」
 シンクルスは奥歯に力をこめた。
 呼吸が止まる。
 顔が熱くなってくる。無意識に全身が強ばり、どうにかそれをほぐそうと、鼻で息を吸い、吐いた。初めは浅く。次第に深く。
「何故……」
 それでも、自分の声も震えてしまうのを、堪える事ができなかった。
「何故なのだ? 彼女は……」
 自分に接触したせいか? そのせいで?
「彼女は――」
 指をかけたままの扉に、向こう側から力が加わるのを感じた。手を離し、後ずさる。両開きの扉が一枚だけ、外側に向かって開いた。
 声の印象通り、老女だった。燭台を手に持ち、修道女の黒いローブに身を包んでいる。髪をシニョンに詰めて額をむき出しにしているが、太い皺の刻まれたその額には、黒い痣ができていた。痣は左目の周囲の痣と繋がっており、左目は眼帯で覆われている。浅い水色の瞳を持つ右目は輝きを失い、どんよりと濁っていた。
「ミス・コストナーは」
 女は平板な口調で続けた。かさかさに乾いた唇には、切れて血が流れた跡が残っていた。
「彼女の夫に殺されました。ヴィン・コストナー。彼が自らそう発言しました」喋りながら、扉から手を離す。「ミス・コストナーは最期に私たちの所に立ち寄りました。オレー神官大将の私邸に大切な物を取りに行かれると。私は止めました。ですが、思い出の品だからと仰り……結局そのまま夫に裏切りを受けたのです」
 躊躇いながらシンクルスは尋ねた。
「その傷はコストナー殿の夫によるものであろうか? 何と痛ましい……」
 すると、どんよりした目に強い感情が走り、彼女は何かを捲し立てそうな気配さえ見えた。だが、黙った。沈黙が続いた。老女の方がそれを破った。
「申し遅れました。私はルナ・キンメル。当学院の院長を務めております」片足を引き、お辞儀をした。「ミスター・バドゥルー、お力をお貸し頂けるとのお申し出、心より感謝いたします。ですが今申し上げた通り、ミス・コストナーの消息についてはもはや当方から力になれる事はございません」
 シンクルスは学院長に対し、首を横に振った。
「そのような事を気にしておられる場合ではないとお見受けします。学院長殿、不躾な来訪をお許し下さい。ここで何が起きたかをお聞かせいただきたいのです。学生の方々はご無事なのでしょうか?」
「あくまで聞いた話ですが」
 聞き役に徹していたアセルが一歩前に出た。従者らしく腰の低そうな喋り方だ。
「新総督軍の中には、前総督の実効支配域において『鍵狩り』を行う派閥があると聞き及んでおります。学院長様、あなた方ももしや――」
 シンクルスは思わずアセルを振り返り、にわか作りの誠実さに満ちた横顔を凝視した。鍵狩り? 何の事だ? だがアセルはもちろん何の解説もしなかった。
 キンメルの右目には、じわじわと感情の光が戻りつつあった。シンクルスは強い憤怒を感じた。間違いなく彼女の体から発されるものだった。
「……どうぞ、お上がり下さい」それでもあくまで冷静に告げ、キンメルはゆっくりと背を向けた。「中でお話をいたしましょう」蝋燭の明かりが彼女の背に遮られる。屋内に他に明かりはなかった。まずシンクルスが、次に従者役のアセルが屋内に足を踏み入れた。アセルは扉に鍵をした。
 左右にまっすぐ延びる廊下を左に進み、突き当りを曲がった先が学院長室だった。天井からは豪奢なシャンデリアが下がるが、セットされている蝋燭の内火がついている物は三本しかなく、ガラスが精いっぱいに光を反射させても、執務に専念できるほどの明るさはなかった。
 だが、部屋の奥の飾り戸棚を照らすには十分だった。開け放たれ、破壊されている。ガラスは砕け散り、戸棚を守っていたであろう鎖は鍵を外されて床に伸びていた。
「女学生たちを盾に――」
 キンメルが話し始めても、シンクルスは破壊された飾り棚から目を離せなかった。
「学院の宝を――『鍵』を寄越せと――私はあの子たちを――」
 鼻をすすり上げる音。言葉を切り、嗚咽を漏らし始める。
「守るには――他にどうしようもなく――」
「そうでございましょうとも」蒼白になりながら、シンクルスはキンメルを見ずに答えた。「ええ……学院長殿、あなたは正しかった」
 学院長はついに声を上げて泣き崩れた。ようやく彼女に目をやった時には、執務机に突っ伏していた。
 アセルとシンクルスは目を合わせた。アセルが両手を上げ、陸軍式の手話でメッセージを寄越した。
『ララミディアが思い出の品だのいう物の為に危険を冒したとは思えんな』
『同感だ。よほどの品でない限りそのような気は起こさぬだろう』
『何か思い当たる節はあるか?』
『その前に、鍵狩りについて教えてくれぬか。そのような話は聞いた事がない』
 アセルは渋面を作った。
『言葉通りの意味だ。連合側の目的は反乱軍を叩き潰して前総督勢がかき集めた船や資料を強奪し、自分たちが代わりに宙梯にたどり着く事だ。だが、宙梯ほど大規模なものでなくとも直射日光を避けられる聖遺物としての建造物は他にもあるだろう。その封印を解除するために地球遺物をかき集めているんだ。だがまさかダーシェルナキ公の実効支配下でこのような事を許してしまうとはな』
 キンメルは泣き続けており、まだ顔を上げる気配はない。シンクルスは急いで手話での会話を続けた。
『その問題は極めて大きい。これは禁識に当たるのだが、鍵というのは物品だけではない。人物としての鍵も存在するのだ』
『どういう事だ?』
 アセルの目が鋭さを増した。
『聖遺物として保存されている地球文明品の中には、言語生命体による操作を許さぬ物もある。そのような聖遺物が地球人と言語生命体とを判別する方法は、我々の体内に存在する分子キー、言語子だ。だがごくまれに言語子の働きが極端に弱い者が存在する。そのような言語生命体を、聖遺物は言語生命体として認識できない』
『つまり、地球人であると誤認して操作を許したり、門を開いたりするわけだな』
『そうだ。この〈人物としての鍵〉を識別する方法は文明退化によって失われてしまったが、そうした人物を発生させやすい血筋、地球人の血を引く家系のリストをオレー大将は所持していたはずだ』
『それがオレー大将の私邸に保管されていた可能性は考えられるか?』
『重要機密文書であるから、通常であれば考えづらい。だがオレー大将であっても、最後にはご自身の守護神殿すら安全な場所ではなくなっていた。どこかに持ち出したとしても不思議はない。しかし――』オレー大将の私邸で目撃した略奪の有り様を思い出し、シンクルスは目を伏せた。『そうだとしても、焼き払われたかもしれない』
『もしそうでなければ、運悪くリストに掲載された家系の末裔は人間狩りに遭う恐れがある、というわけだな』
『そうだ』
 キンメルが顔を上げないか警戒し続けながら、シンクルスは頷いた。
『クルス、念のため聞くが、地球人の血を引く君が鍵である可能性は?』
『ない。神学生時代に聖遺物へのアクセスという方法で試験されるから、その時点でわかる。俺は鍵ではないし、鍵の知り合いもおらぬ』
『では、いずれにしろ鍵を入手する必要がある、という事だな。このままララミディアの夫を追うぞ。鍵を強奪する』
 人の弱みにつけこむようで気は進まぬが、甘い事を言っている場合ではなかった。
 身も世もない泣き声がトーンダウンした。シンクルスは歩み寄り、腰を屈めて遠慮がちに声をかけた。
「学院長殿のご心痛、お察しいたします。今は学生の方々がご無事だっただけでも――」
「いいえ」潤んだ右目が動き、シンクルスを捕らえた。「女学生が三人、連れ去られました」
「……何と」
「その行き先はお分かりですか?」
 声の調子を跳ね上げて、アセルが慇懃に尋ねた。
「主人も私めも、そのような輩を捨て置く事はできませぬ。その女学生たちを必ずや保護いたしましょう」
「相手は十五人おります。お二人ではとても……」
 被害状況からして単独犯ではないとわかっていたが、それほどの大人数であるとは思っていなかった。シンクルスとアセルは思わず視線をかわした。あまりにも多勢に無勢だ。だが選択肢はなかった。シンクルスが答えた。
「だが、連中が隙を見せる瞬間くらいございましょう。目を掠めて保護する程度であればできようかと。どうか教えて下され。見過ごす事はできぬのです」
 他に縋る者のない学院長は、あっさり答えた。
「盗み聞いた話では、シオネビュラを経由しコブレンへと」
 やはり、という気がしてシンクルスは頷いた。ダーシェルナキ公の実効支配域内で公然と新総督派が幅を利かしている町はコブレンだけだ。新総督派の有力者のもとに鍵を持ちこむという手柄を立てれば、彼の命と一定の地位は約束されたも同然だ。更に経由地点の商業都市シオネビュラは、大規模な神官兵団を抱える〈老いたる知恵と知識の魔女〉神殿の根拠地であり、武力を盾に中立を貫いている。
 シオネビュラ神官団。
 活字と印刷に関する組合の統括神殿で、その武力は南西領の神官団の中では一、二を争う。
『どんな陰謀があるかはともかく、コブレンの新総督勢から連合軍を内部に引き入れられるのは非常にまずい』アセルが、キンメルの死角から手話を行い、続けた。『ヴィン・コストナーは殺す。生かしておく理由はない』
「彼女たちのために……」シンクルスは自己嫌悪に耐え、告げた。「尽力いたしましょう」


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