反撃開始

文字数 3,894文字

 2.

 零刻を迎え、一時を過ぎても、コブレンの家々から出てくる人はいない。時折裏口から裏口へと、用があって行き交う人はいるものの、怯えをまとい、この街がもはや自分の街ではないことを、誰もが心得ていた。
 二時。入門受付が始まった。コブレンの街は入り口と出口が厳格に区別されており、それぞれ南の区画に一カ所ずつしかない。もとは鉱山の恵みで栄えるコブレンの富が盗み出されるのを防ぐための措置だった。街を占拠する救世軍にとって、これほど管理のしやすいことはない。そして、無数にある非公式の出入り口のほとんどは、救世軍に協力する暗殺者たちが押さえていた。
 街の出口の門も、二時の鐘が鳴るや閂が外された。門の中央を仕切る落とし戸の鎖が巻き上げられる。次いで、最も外側の鉄格子の戸も重々しく上がっていった。空堀に、跳ね上げ式の橋が渡される。堀の底では、先端を尖らせた杭を束ねた罠が、その殺人的な悪意を秘めて、夜明けの中で目覚めている。
 跳ね橋の巻き上げ機を守る二人の救世軍兵士が、長く暗く続く門の内部の通路に目を細めた。通路の奥に、門の出口がほの白く矩形(くけい)に光って見えていた。
 市街では、二十人ほどの一団が、開かれた出口に向かって歩いていた。西方領の外交官と副官、事務官やその護衛たちだ。誰も口を利かない。西方領の兵装に身を包んだ護衛たちに両側面を守られながらも、コブレン南部で最も大きな通りを直進した先の門を生きて出られる保証はないと、全員が覚悟していた。
 太い長い坂を、一団は下った。その一団の出発点となったホテルから火の手が上がったのは、そろそろ彼らの視界の先に、坂の終着点である門が見るか見えぬかという頃であった。
 火災に最初に気付いたのは、救世軍の兵であった。西方領外交団の貸し切りとなっていたその小さなホテルの正面に、挑発するように拠点を構えていたのだから当然のことだ。ホテルは南棟と北棟に分かれており、いずれも二階建て。火の手は北棟からあがった。
 イオルク・ハサ大尉は仲間たちを先に行かせ、ホテルの南棟に残っていた。
「中庭のここと、南棟玄関のここと、ここにある裏の樅の木の根本」
 イオルクがホテルの見取り図を手に、顔に火の明るさを浴びながら解説していた。聞き手はテスで、三カ所に打たれたバツ印に目を走らせ、頷いた。
「ここを着火点として用意した。これでよかったね?」
 二人の耳に、通りの向かいの施設から飛び出してきた救世軍兵士の叫びが届いた。
「ホテルを使えなくするつもりだぞ!」別の声が続く。「燃やしておかなきゃいけないような物がまだ残ってるんじゃないのか?」
 二人の声は短い悲鳴に変じた。弩を備えたオーサー師とラザイが火の間近に潜んでいるのだ。
 イオルクが眉を顰めた。
「……ホテルの人には申し訳ないけど」
「そういうことは、全部終わってから考えよう」テスはゆっくりと宥めた。「中の人はみんな、逃げているんだろう?」
「ああ」
「ホテルを残しておいても、救世軍の新しい拠点になるだけだ」
 イオルクは自分に言い聞かせるよう返事した。
「そうだね」
 間を置かずして、救世軍の拠点となっている商工会議所と、付属の宿泊施設や資材倉庫の周辺で散発的な戦闘が発生した。救世軍と協力関係にある〈タターリス〉指導者ジェノスは、往来で外交団の撤退の様子を監視していた。火の手が上がり、ほどなくして喧噪、やがて坂の上で救世軍兵士が逃げ惑う姿が見えるようになり、ジェノスは舌打ちした。西方領の外交団の一行は、ジェノスが潜む地点の僅かに手前まで来ていた。彼らはたじろぎ、足踏みしたが、やがて出口の門へと再び向かいだした。いくぶん早足で、ジェノスの前を通過する。
「俺たちの拠点が襲われてる!」
 ジェノスと共にいる救世軍の兵士は三人。〈タターリス〉の暗殺者は二人いて、どちらもエーデリアではなかった。三人の兵士は浮き足立ち、剣の柄に手をかけたり離したり、周囲を見回したりし始めた。全員二十代だが、徴兵された経験はない。
「どうしよう、戻らないと」
「馬鹿を言うな!」
 それをジェノスが怒鳴りつけた。
「お前らの拠点には何百人いると思ってるんだ! そんなにすぐに潰されるような拠点か? えっ?」
「ですが」
「口答えをするな!」
 兵士は青ざめて黙った。
「もういい! お前らは西方領の連中のところにいけ! 無事にコブレンから出ていくようにしろ! さっさと追い出してやれ!」青筋を立て、更に怒鳴る。「あいつらがここで死んで、それを我々のせいにされたら余計な介入を招くだろうが! ただでさえ不必要な殺しをしてくれたせいでやりづらくなってるんだ! わかってるんだろうな!」
 それとは違う救世軍兵士の三人組が、指示を待たずに持ち場を放棄し、襲撃されている自分たちの拠点がある方角へと、泡を食って走っていた。
「あっちに行ったぞ!」
 先頭を走る兵士が後ろの二人に叫びながら、十字路に出て左方向を指した。すぐにその方向へ走り出す。後ろの二人も、軽鎧を鳴らしながら懸命に追った。彼らの進行方向には、外交団拠点だったホテルから立ち上る太い灰色の煙が、何かの象徴のように見えていた。
 細い路地の入り口から、黒塗りの大鎌の刃が伸びてきた。その刃は、道の端を走る一番後ろの兵士の首筋を優しく抱き込んだ。兵士はまるで気付いていないようであった。彼は、自らの走る勢いで、首を大鎌の刃に食い込ませた。鎌が勢いよく引かれ、兵士の首が軽々と舞う。
 簡素な兜が頭ごと舗道に落ち、音を立てた。
 二人目の兵士が、首を斬り落とされた兵士の五歩ほど先で振り向いた。彼は「どうした」と問いかけようとしたところで、翻る黒っぽい長髪、しなやかな女の肢体、それが両腕を頭上に振りかぶり、腰を捻り、自分に何らかの攻撃を加えようとしているのを確かめた。
 直後、右の首に強い衝撃を受け、意識を失った。
 異変に気付いた先頭の兵士は、振り向いた瞬間に右目をダガーで貫かれた。
 ダガーを投げたアエリエは、一旦地面に逆さに立てた大鎌を両手で握り直し、短く叫んで体を屈する兵士へと、跳ねるように距離を詰めた。そして、前の二人と同じように、一撃で首を刎ねた。
 殺された三人の兵士が追っていたのは、逞しい体つきの若い男と、やけに目立つツインテールの銀髪を揺らめかせて走る少女の二人組だった。
「ジェスティ!」
 ダガーを片手にコブレンの街を走り抜けるミスリルが、少し遅れて手ぶらで走るジェスティに、振り向かぬまま呼びかけた。
「はい、団長」
「よくあの女の予定を掴んだな」
 ジェスティは、ミスリルには見えぬことを承知で微笑みかけた。
「そういうの、得意ですから!」
 ミスリルもまた、にやりとした。
 行く手は倉庫街だった。高い倉庫が林立し、離れた地区の騒動も聞こえず、煙も見えない。風向きのために煙の臭いも流れてきていなかった。拠点襲撃の連絡をこの地区まで生きて届けた救世軍兵士もいないらしい。静まり返っているが、二人が堂々と倉庫街に乗り込むと、すぐに曲がり角という曲がり角から兵士が姿を現した。
「お前ら、止まれ!」
 剣に手をかける兵士を無視し、その隣を駆け抜ける。
 背後で、たちまち兵士らがつどい騒ぎ始めた。
「団長、行ってください」
 ミスリルは横目で後ろのジェスティを窺った。
「任せていいか?」
「はい。あの女の抹殺に集中してください。どうか」
 黒いマントに身を包んだジェスティは、まだ武器を取り出していない。彼女は続けた。
「団長、エーデリア・ハラムはヘス師を殺しました」
「ああ」と、頷く。「わかってる」
 ミスリルは足を早め、ジェスティは立ち止まった。振り向き、自分のもとへ殺到する兵士たちを数える。
 六人。
 ジェスティは、マントの内側に両手を差し入れた。金具を外す、カチリ、カチリという音が続いた。
 彼女の細い腰に巻き付いていた銀の帯が、地面に垂れた。帯は護拳つきの柄を備えていた。
 それは、きわめて柔軟性の高い鉄でできた剣だった。刀身は、少女のジェスティの身の丈よりもずっと長い。ウルミと呼ばれる武器で、このよくしなる刃物は鞭の長所と剣の長所の両方を持ち合わせている。
 ジェスティがそれを引きずりながら、後ろの兵士たちのもとへ駆け戻り始めると、対する救世軍兵士たちは、見慣れぬ物体を警戒してつい足を止めた。
 恐怖を与える唸りが響き、人を寄せ付けぬ鞭状の長剣は、正面にいた兵士の脇腹を深く抉った。
 戦いの場から通りを隔てた先の古い倉庫で、エーデリア・ハラムは帳簿をめくっていた。いかなる喧噪も、まだここに届いていなかった。広い倉庫は一階と二階に分かれているが、二階部分があるのは入り口から奥の、全体の三分の一のスペースだけだった。
 二階部分の手すりのそばで、時折暗い一階を気にかけながらエーデリアが佇んでいると、帳簿に落ちる天窓からの光に一瞬影が差した。
 この夜明けを背負い、鳥とは違う何かが飛んだのだ。
 直後、天窓が砕けた。
 帳簿を一階の暗がりに投げ捨て、跳びのき、身構えるエーデリアの前で、大きな物がごろりと床を転がり、降り注ぐガラス片を避けた。
 淡い薄紫の光の中で、エーデリアはその人物を見極めた。
 ミスリル・フーケ。彼はエーデリアの前で立ち上がり、右手で軽く服の埃を払った。
 二人の間に横たわる距離は二十歩ほど。
 見つめあったが、言葉はなかった。


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