忘れられた都市

文字数 4,094文字

 2.

 面倒を見る人のいなくなった番犬が、痩せた腹と充血した目を雲の光に晒していた。季節の変わり目、この山地に天候が安定する日はなく、飼い主の消失、気圧の変動、黎明、飢えによって、よく訓練された犬さえ精神不安定に追い込まれていた。耳の長い黒い犬で、それは扉が壊された、立てこもりの形跡が見られる民家へと、爪の音を立てながら入っていった。玄関口には夥しい流血の痕がある。一階の窓の庇からは花を吊るす籠が垂れ下がっている。針金でできた吊り具の反り返った飾りには、ぶちぶちとちぎれた髪が引っかかり、湿った風に揺れていた。誰かが抵抗し、頭をちょうどその飾りの位置にぶつけて髪を絡ませ、それをほどくことも許されず、腕ずくで連れ去られたようであった。花は当然のごとく枯れており、もはや何の花であったかさえわからない。そして、籠の向こうの窓は割れており、ソファがひっくり返っていた。背もたれと座面と床が作る三角形の空間からは、血、そして、子供のものと思しき、腐り始めた細い足が出ていた。
 犬が部屋に入った。
 戸口で立ち止まり、クゥっと哀れっぽく口を開けずに鳴くと、尻尾を丸め、引き返した。窓の向こうの部屋から犬の姿が消え、ほどなくして、玄関から出て来た。
 ガタッと路地から音がして、犬はさまよう足を止めた。何かを期待するような目で音がしたほうを見るが、出てきたのは飼い主ではなかった。
 誰が見ても狂人だった。だが彼を見る人間は残っていなかった。男であるということは、体格でわかる。絡み合うぼさぼさの髪は、肩につくほど伸びている。腰が曲がったかと思うほどの猫背。両腕はだらりと垂らし、指先は膝の下にあった。じっと下を向いているが、髪と肩の間から、僅かに頬と顎が見えた。無精髭で覆われており、涎が光っている。
 男が路地の影の中から出てくると、黒く見えた髪は、汚れた茶色だとわかった。犬はクゥクゥ声を出した。甘えているようにも怯えているようにも聞こえ、爪を鳴らして足踏みしたが、狂人のぎらつく双眸(そうぼう)に射すくめられるや、尻尾を丸めて一目散に逃げ出した。男の背と腰が、まっすぐに伸びた。様相からは意外なほどの明瞭な雄叫びを上げ、犬を追って走る。それは戦場や教練で鍛えた鬨の声であり、精神が狂気に冒されようと、独立して輝きに満ちた孤高を纏う身体性であった。が、人の形をする限り、犬に追いつけるものではない。犬は死体を引きずってできた血の痕に沿って逃げ去った。カラスが群をなし、砂の上に残された、干からびた何かの欠片をついばんでいた。だがそれも一斉に飛び去った。
 狂人は角を曲がったところで転び、倒れ伏した。彼を追いかけてきた風が、彼を過ぎて行った。倒れたまま立ち上がらず、何か呟いていた。抗弁する口調だった。講義を理解できない学生が厳格な教授にするように。そして、亀が甲羅に手足を引っ込める如くに、彼は手足を丸めた胴体の下に畳んだ。首をすくめ、頭頂を地面にくっつけようと努力しているように見えた。
「人は嫌だ、駄目だ」それが抗弁であった。「嫌だ、人を殺すのは駄目だ、嫌だ、もう嫌だ、嫌だ……」
 ハルジェニク! 頭の中で声が鳴る。指揮を執れ、ハルジェニク! 何をぼやぼやしているんだ! 三位神官将が何たる様だ!
「父上」
 馬のいななきが続いた。慣れた地響き。群れたる馬によるものだ。頭が割れそうな鬨の声。弓の唸りと槍の壁。迫りくる。だがハルジェニクの体は動かない。ここがどこだかわからない。
 これは罰だ! 千々に引き裂かれた自我の、どれか一つが叫んでいる。ロザリアを暴行の末に殺した罰だ。それを、彼女の態度が悪かったせいだと言い訳した罰だ。プリシラがたちの悪い同級生三人にされるがままになるのを放置した罰だ。それを、自分はプリシラには直接手を下していないなどと言い訳した罰だ。イノイラにしたことの罰だ。リジェク市で鍵狩りにあった女にしたことの罰だ。アーチャー家の濃い影に隠れ、司直の手を逃れた罰だ。
 罰ではない! 異なる自己が抗弁する。罰ならば、償えば終わるのだから。これは終わらぬ、永劫……。
「ハルジェニク」
 今度聞こえた声は優しかった。
「ハルジェニク、もうやめて」
 透き通る乙女の声が諭し、静かに、しかし力強く、戦の音を消していく。
「自分を責めるのはやめて。もういいのよ」
 コブレンにいるのだとわかった。黄色い砂が打たれた街路だ。恐れが鎮まり顔を上げた。
 十歩先、広場。死体付きの首吊り台を背に乙女が立っていた。ロザリアの顔の、しかし、青い髪の。
 乙女が背景とする首吊り死体たちは、処刑の瞬間に謀ったがごとく、皆向かって左に首を傾げていた。その首吊り台が、一列に五人、それが五列並んだもので、二十五人まとめて処刑できるものだとハルジェニクは知っていた。何と悪質な(はかりごと)。二十五人のコブレン市民が全員左に首を曲げ、全員左に舌を垂らす。同じ具合に顔を紫色に腫れさせて、同じ具合に肩は撫で肩。太い棒に葡萄を一粒突き刺した具合だ。
「人間があんな紫色になることは砂糖壷の蟻の群れ」
 乙女は優しく語りかけながら首を傾げた。
「ライトアロー家とアーチャー家が手を取り合ってしたことは、キノコの収穫の季節に農民たちを窪地の炎に突き落とすことを」
 足を踏み出す。
「一人ずつ両手を縄で縛り両端の二人の空いた手は切り落とされ」
 歩いてくる。歩けども、歩けども、ハルジェニクには近付かない。悪辣な罠のように、無限の距離を歩き続ける。
「神官兵たちが鉄の棒で突き炎の淵へ歩かせ、落ちよと」
 が、距離のことで何も動揺してはいないのだ。
「そんなことはカササギですら知っています!」
 厳しく言い放った。
 歩みを止める。
 すると、またも神がかった微笑に戻る。
「でも、もういいの。だって私……」
 後ろから、柔らかい光が射して悪い謀を隠した。靄のように広がり、見ているだけで温かい感じがするそれは、ロザリアの魂が今いる場所を示しているようであった。
「私はね、ハルジェニク」
 良い場所に行ったのだ。罪なくして死んだ乙女。彼女は穏やかな場所に行ったのだ。
「ハルジェニク、あなたのお陰で……」
 ロザリアが、どろりと溶けた。
 柔らかな光が突如として黒い炎に変じ、乙女の後ろから、ハルジェニクへと伸びてきた。
「お陰で、地獄に堕ちました」
 上から下へと乙女の肉が垂れ下がり、頭頂では頭蓋がむき出しになり、両足では下がった肉と皮膚が折り重なる、三角形の体型となった。口は大きく歪み、唇は二度と閉じられぬ形となって残った。両目は垂れた瞼と額の肉に埋もれた。だがまっすぐ駆けてきた。今度は距離が縮まった。狂人ハルジェニクは立ち上がろうとし、後ろ向きに倒れた。両肘と尻で後ずさり、靴が虚しく砂を蹴る。が、目を逸らすべく体を俯せに倒し、一瞬恐怖から逃れると、這い逃れ、手をつき、膝を曲げ、身を起こし、立ち上がった。立ち上がるや走り出した。
 絶叫が、ハルジェニクの居場所を知らしめながら、コブレンの北の区画を裂いて長く伸びる。
「今の声――」同じ区画に、怯えて体を寄せあう四人の男女の集団があった。「助けを求めてるんじゃないか?」
 体力に自身のある二十代ばかりで、全員、全身から下水の臭いを放っている。実際服も体も下水で濡れていた。
「行こうよ」
 女が囁く。
「でも」
「捕まったら殺されるよ!」
 再びの叫び声。
「殺されたら、誰が助けを呼びに行くの?」
 コブレン自警団が市内に戻って来ている、という話を、彼らは下水路の獄卒たちから漏れ聞いていた。今はコブレン南部に拠点を構えているという。コブレン自警団は、存在意義の面からも、また実力の面からも、自分たち市民を庇護し得る、唯一の組織だった。脱走して駆け込み状況を訴える役として、この四人が選ばれた。
 次に聞こえた叫び声は、幾分近かった。
「何か――」
 変だと言いたかったのかもしれない。誰もが思っていた。足音が大きくなってくる。そして止まった。
 背後だ。
 四人が同時に振り向いた瞬間、声の主はまた走り出した。
 理性がその姿を受け入れられなかった。認知が遅れ、行動は更に遅れた。ぼんやり立ち竦む四人へと、それは迫り来る。ひどく猫背の人間。壊れた人間であった。
 それが路地に入ってきたとき、路地の反対側の出入り口に近かった男女一組が我先に逃げ出した。もう一組の男女が取り残され、男のほうに、狂人がのしかかった。
 女が見た光景は、髪をふり乱した狂人がナイフを抜き、振り上げるところまでだった。目を閉ざしたわけでも、耳を塞いだわけでもなかった。だが全ての知覚が閉じた。
 食われるって、どういうこと?
 靄がかかった頭の中で木霊する声があった。
 そういう疑問を抱くということは、やはり目の前で行われていることがあたしには見えているんだ、と女は靄の中で考えた。
 ねえ、あんたはあたしが窓枠屋の娘だってことがわかる? あたしを食べたら窓枠屋の娘の味がするの? 何か、あたしがあたしであることを象徴する味がするの? あんたは、あたしが窓枠屋の娘であることを考えながら食べるの? ある日いきなりあいつらが来て、引き立てられるあたしが額を戸棚にぶつけてできたこの傷を見るの? あたしの体の中に残ってる、琺瑯(ホウロウ)屋の息子の臭いを嗅ぐの?
 そうであって欲しかったが、そうではないとわかっていた。餌に個性はなく、餌に人格はない。
「花だ」
 残酷にも知覚が戻った。
 女は、ハルジェニクが両手を赤く染め、抉りだした内蔵を高く掲げる様を目にした。
「花だ……ほら、受け取れよ。ほら、ほら!」
 何か見えない存在に捧げようとしているらしく、窓枠屋の娘を見ようとはしない。
 どこか遠くで二人の仲間が悲鳴を上げた。
 彼らに悲鳴を上げさせた存在が、暗殺者たちが――ハルジェニクの声につられ、引き寄せられて来る。


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