密書と忠告

文字数 4,051文字

 1.

 天球儀。
 アースフィアを覆うその巨大な鳥籠には、地球を含む様々な星が描き出されていた。地球にとっての太陽と、水星、金星、地球、火星、木星……その網目の向こうに広がる星空は、多くが偽りの星である。言語生命体から天体観測の技術を取り上げたのみならず、いかなる方法を用いても、アースフィアが広大なる宇宙の奈辺にあるかを知らしめぬために散らされた光点。
 地球人はかくも被造物を蔑み、憎み、恐れた。
 地と天球儀の間を薄雲が遮り始めた。
 天球儀を形成する物質は天籃石(てんらんせき)と呼ばれ、アースフィアの地上にも存在する。情報伝達において同じ物質間で不思議な絡み合いを見せる天籃石は、天球儀の裏側や地上に適切に熱や水を循環させている。僅かでもそのバランスが崩れていたら、アースフィアは渇ききった大地となり果てただろう。
 物質と数式の不思議に思いを馳せるあまり、シンクルス・ライトアローはしばしば眠れずに過ごす事があった。彼は物心ついた頃から地元では神童として知られていた。神官の最高学府と呼ばれる王領神学校には十一歳で入学した。学ぶ事と想像力を飛躍させる事は無上の喜びであったが、今は天球儀の不思議に思いを馳せていられる心境ではなかった。
 彼は美しい青年であった。すらりと背が高く、色白で、育ちが良く強力な人物の多くがそうであるように、姿勢が正しかった。その整った顔には、正しい愛情を享けて育った人間特有の自信と内面の強さが表れていた。瑠璃色の髪。その色は本来地球人には有り得ぬ発色であるため、かつて奇形種と呼ばれていたらしい。地球人と言語生命体が共存していた頃の話だ。瞳は髪と同じ瑠璃色。日頃は温厚で知的な光を湛えている二つの瞳は、今は強烈なまでの憎悪を宿していた。
 その鋭くぎらついた眼光は、彼が佇む丘の下、田舎の町の瀟洒な館に注がれていた。
 屋敷は窓という窓が割られ、とりわけ奥方の寝室だった窓からは、美しく価値ある陶器の人形や皿が絶え間なく飛び出していた。それが前庭の木に当たって砕ける度、酔った救世軍兵士たちが歓声を上げた。彼らは的当てに興じるのみならず、形ある物は皆壊さずにいられぬという狂気に憑かれ、散々屋敷の中で暴れ回っている。中の惨状は物音から容易に想像できた。庭には世に二つとない貴重な本が投げ出され、火にくべられていた。その隣では、略奪品の取り分を巡って、兵士が取っ組み合いの喧嘩をしていた。
 かくも醜悪かつ無残な略奪に遭っているのは、メルシニー・オレー、元南西領神官大将の住居だった。南西領全ての神官たちの頭目となるその役職を、オレーは三十年務めた末、捕縛の上即座に処刑された。八十九歳の老人に対し、いささか苛烈の度合いが過ぎる最期だった。

 ※

 はじめ、時計に乱れによって『黎明』は現された。
 宇宙空間に打ち上げられた地球の文明品、『聖遺物』である人工衛星からは、夜の王国に向けても一定周期で正しい時刻が送信されていた。それは夜の王国の五つの『聖遺物』によって受信された。王領の神事局の庁舎である時計塔。そして五つの天領地の聖地、『言語の塔』である。
 時計は、この五か所の物を除いては、ごく原始的な構造の物に限り、文明退行の対象品目から除外された。神官たちが発表する時間に日々時計の針をあわせ、忘れず鎖を巻く事で、国民は時を知る事ができた。零刻から始まり二十三時で終わる、大きな文字盤の時計である。
 だが、既に半年も前に、六つの聖遺物は時を受信しなくなっていた。間もなく東方領の東の沖に、火のような線が現れた。その輝きが、迫り来る太陽であった。
 それまで夜の王国の標準時間帯は、三つの子午線によって分かたれていた。一つ目は太陽の王国の天文台を通過する初度子午線で、同じ線上に南西領『言語の塔』が存在するため、南西領標準時子午線とも呼ばれている。二つ目は王領の神事局庁舎を通過する神事局子午線。三つ目は東方領『言語の塔』を通過する東部標準時子午線。経度差十五度で一時間の時差となり、西方領・南西領と北方領・王領の間にはおよそ三時間半の、西方領・南西領と東方領・南東領の間には七時間の時差があった。
 経度差は、東方領〈蝶凱(ちょうがい)の天領地〉に悲惨な役目を背負わせた。『黎明』の始まりを破滅と混乱によって王国中に知らしめる役目だ。
 全ての言語生命体には、『言語子』と呼ばれる分子キーが組みこまれている。それは長時間にわたり――具体的な時間の長さは地球人によって隠匿された――直射日光を浴び続ける事で、言語生命体の肉体を崩壊させる。『言語崩壊』と呼ばれるその現象は、血の一しずく、髪の一筋さえ残さず人間を溶かし尽くすが、崩壊の過程で別の言語生命体と融合し、自我の崩壊した化け物となる事があった。そうして生まれた化け物は『化生(けしょう)』と呼ばれ、人間同士の間では、まだ観測されていない。
「東方領東部の空は、化生どもによって既に覆い尽くされている」
 オレー神官大将は、僅かひと月前、シンクルスにそう告げた。オレーはシンクルスに目をかけており、シンクルスもオレーに対しては特別な恩義があった。第十七計画への対応を巡り、各地の有力な神官が集められた日だった。オレー大将はシンクルスを内密に呼び出し、一通の封筒を渡した。
 蝋で口を固められ、封印が捺されていた。
「シンクルスや、神殿に帰ったら」オレー大将は震える声で言った。「この書状は金庫にしまいなさい。私から開封の指示があるまで、決して開けてはならぬ」
 そのひと月の間に、黎明は東方領を嘗め、とりわけその東部の空を水色に変えた。南東領〈不死廊の天領地〉、北方領〈凍り砂の天領地〉でも、化生による人的被害が拡大していた。
 シンクルスが書状を受け取り、神官将として勤める僻地の神殿で言いつけ通りにそれを隠した時、鼓動が高鳴り、金庫の鍵を回す指が否応なく震え、何かが来る、恐ろしい逃れがたいさだめが来る、その予感に絡め取られていた正にその時――西方領の神官の名家であるアーチャー家の後ろ盾を得て、夜の王国に〈救世軍〉が正式な軍として誕生していた。
 かつてカルト集団『真理の教会』を生み出した軍事系徒弟組合『武器・火器の改良および発明管理組合』を母体とし、神官兵団と民間の志願兵で構成される軍隊。
 言語生命体たちは、傲慢の罪により夜の王国へと追いやられた。
 我々はその罪を清められた『許されし民』である、と、救世軍は主張する。その門に下る者は皆、許しを与えられよう。彼らは何らかの秘蹟を用いて人心を掌握するという。秘蹟――ただ一つ、まことしやかに囁かれる噂があった。
 彼らは言語子を操作して言語崩壊を有効に駆使し、肉体を強化する、不死の化け物であると。
 二日前の出来事だ。風が荒れていた。海鳴りが、窓を閉め切った執務室にまで聞こえてきた。シンクルスはオレー大将からの使いを迎え、更なる封書を受け取った。
 例の文書を開封せよ、とだけ綴られていた。
 シンクルスは執務室に一人になり、金庫の鍵を回した。机に封書を置き、立ったままペーパーナイフを滑らせた。
 書状に目を通したシンクルスは目を(みは)り、その場に凍りついた。二度読み、三度読んだ。四度読み五度読んでも、内容は同じだった。六度読み、七度読んだところで、くずおれるように椅子に座りこんだ。
 文面は短かった。

『この書状が開封された時点を以って、タルジェン島ヨリスタルジェニカ〈灰の砂丘〉神殿正位神官将シンクルス・ライトアローをその役職より罷免する』

 ※

 草を踏みしだく音で我に返った。シンクルスはマントの下の武器に手を添え、素早く振り返った。
 女がいた。三十過ぎあたりの、何も持たず、灯りすら手にしていない、しかしそれとなく品の良さが窺える佇まいの女。茶色い髪は全て後ろでひっつめ、額を出している。
「何を見ておられるのですか? 旅のお方」
 女が暗い調子で尋ねた。身に纏う物はゆったりした白い無地のワンピースが一枚で、風が吹く度に大きな袖口がはためき、寒そうに見えた。
「いいや」シンクルスは首を振った。「ただここを通りがかっただけだ。すまぬが先を急ぐ」
 女の隣を通り抜け、整備された道に戻る。すると女が全く声の調子を変えず続けた。
「神官たちはみな新神官大将に従うようお触れが出ています」
 シンクルスは足を止めた。
「西方領から来たウージェニー・アーチャー。本日より南西領の新神官大将です。今日中に公にされます。お触れを拒めば命はございません。だからオレーは死の直前にあなたを自由にした」
「……そなたは何者だ?」
「オレーの孫をお忘れですか? シンクルス・ライトアロー」
 女はまだじっと村を見下ろしていたが、ゆっくり体の向きを変え、シンクルスと再び向かい合った。
 オレーの孫。そう聞いて、シンクルスはこの女と初対面ではない事をようやく思い出した。
「コストナー殿」
 ララミディア・コストナー。オレー前神官大将の数いる直系子孫の一人だが、神官の道には進まずに、南方の都市シオネビュラの評議会議員となったはずだ。
 目を丸くするシンクルスにララミディアは頷いた。
「何故このような所に。危険です。お一人でいられては――」
「危険なのはあなたの方です」歩み寄るシンクルスに、押し殺した声と表情で、淡々と話し続けた。「オレーに近しかった神官らに向けて、既に刺客が放たれています。可能な限り早急に東部地方から遠ざかってください」
 シンクルスはその情報に眉を顰めた。
「ご情報に感謝いたします。ですが、そのために私に接触したのでしたら――」
「私の心配は無用です、シンクルス。あなたを探している人がいます。それを伝えに」
 ララミディアは歩き始めた。
「必ず合流できるでしょう。希望を捨てずに」


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