決着

文字数 12,125文字

3.

「リレーネ!」
 強攻大隊の護衛兵士たちにその場を任せ、リレーネが隠れた細長い倉庫を通り抜けると、その先の道でギゼルに連れ去られていくリレーネを見つけた。彼女は、今度はリージェスの呼び声に気付いた。
「リージェスさん!」
 ギゼルが立ち止まり、手を離した。リレーネは駆け寄ってくると、腕を広げて抱きつき、リージェスの肩に顔を埋め、すぐ離れた。
「血が……」
「返り血だ。それより大丈夫か」
「感動の再会の真っ最中に悪いけど」ギゼルが戻ってきた。「安全な場所に行け。続きはそれからだ」
「ギゼル。何をしているんだ?」
「逃げ遅れた人や親とはぐれた子供を捜してるんだよ。何人もいる」
「リレーネは俺に任せてくれ」リージェスは頷いた。「今は手伝えない。申し訳ない」
「じゃ、さっさとその子を連れていきな。はぐれないようにな」
 リージェスは、シルヴェリア師団の宿営地を目指し、走り出した。危険と思われる場所から遠ざかり、走るのをやめた。
「ヨリス少佐に会いましたわ」
 早歩きをしながらリレーネが囁いた。
「それで少佐の護衛と一緒にいたのか」
「ええ、でも、その後に――」口ごもる。「あの……何と呼ぶべきかわからない、大きなものが出てきましたの」
 捕食者の姿が消えた地点に、姉と別れたメイファ・アルドロスがたどり着いていた。連合軍と反乱軍の戦闘が、そこかしこで散見された。どちらが先に剣を抜き、戦いを始めたかはわからぬが、その状況はメイファにとっても危険だった。
 彼女は孤立していた。シオネビュラ神官団の神官服を見れば、兵士たちは道を開けた。倒壊した建物の陰から飛び出し、いきなり斬りかかってきたその兵士は、ひどい戦闘酔いの状態にあった。それか、追われていたのだろう。いずれにしろ、危害を加えようとしてきたのを理由にメイファは彼を槍で刺し殺した。同じ陰から、その兵士の仲間が続々飛び出してきた。そして、メイファと殺された兵士を見て硬直した。
 彼らの混乱した頭は、シオネビュラ神官団が粛清に乗り出した、と解釈したのかも知れない。または、メイファを殺して口止めし、どの部隊がシオネビュラ神官団に刃を向けたかわからなくしようと思ったのかも知れない。とにかく彼らは襲いかかってきた。メイファが一人でなければ、そんなことをしようとは思わなかっただろう。
 何ら互いの意思を確認することもなく、双方は戦いを始めた。敵は南東領の兵士で、四人おり、全員男だった。メイファは始め、適当にあしらって離脱するつもりでいた。だがそうはいかないと、最初の一人と剣を交えてわかった。彼らの殺意は本物だった。本気で包囲しようと試みる彼らを、槍の長さを生かしてまず一人殺し、後退しながら、左手から踏みこんできた敵の剣を払った。右手側の敵に背を見せる形となった。槍を振り回してすぐに姿勢を戻す。あっという間に壁際に追いつめられた。
 メイファは肘を引き、腰を落とした。真正面の兵士に突進する構えを見せる。左右の敵への警戒が疎かになるが、構わなかった。包囲を突破するには賭けるしかない状況だった。
 残る三人の兵士は全員、メイファに斬りつけようとしていたが、正面の兵士だけはメイファの目の光を見て迷い、防御の構えを取ろうとした。攻撃と防御の体勢を切り替える際、一瞬の隙ができる。メイファはそれを見逃さずにいた。
 だが結局、メイファを含む四人全員が動きを止めることになった。土から苗が芽吹くように、メイファの右手側にいた兵士の腹から槍の穂が芽生えきたのだ。弱々しく苦しげな声を上げ、兵士は体をのけぞらせた。槍が引っこんだ。兵士が倒れ、その奥に、一人の男が姿を現した。
 裾が燕尾になった、若草色の戦闘服。シオネビュラ神官団の神官将の服だ。
 槍を携えた神官将は、黒髪の、三十過ぎの男だった。一旦構えを解き、なめし皮で槍の穂を拭く。
 全く緊張感のない様子で、男は品よく尋ねた。
「寝不足かい? メイファ?」
 メイファは残る二人への警戒を解かず、正面の敵を見据えたまま微笑んだ。
「そうよ。昨日の寝床のあなたってば本気でスゴすぎたんですもの、レグロ」
「おやおや、この連中の前で閨房の営みを話題にすることもないさ。まあこれで」レグロと呼ばれた神官将は、両腕でくるりと槍を回した。「思ったより早く、シオネビュラは客人にお帰り頂けることになりそうだ」槍の穂先を二人の兵士の顔の前に、順に突きつける。二人ともが、メイファから離れ後ずさった。レグロは反対に、彼らに歩を詰め近付いた。そうしながら更に言葉をつないだ。
「メイファ、シオネビュラが静けさを取り戻した日には、お祝いに花火を上げよう」
「先月に上げたばかりだわ、王領軍を追い払ったお祝いに」と、レグロの方にじりじりと身を寄せながら、メイファが応じた。「その前はあなたの誕生日に」
「そうだったかね。いいじゃないか。何度見ても飽きぬものだよ、あれは」
 メイファとレグロはついに横並びになった。残る兵士も二人で、彼らに助けは来ぬようだった。二人の神官は無言になった。兵士たちも剣を構え直した。
「私の補佐官では少々、もてなしが足りなかったようだ」と、兵士たちに向け、レグロ。「レグロ・ヒューム二位神官将、直々に相手をしよう」
 二つ通りを挟んだ先の区画では、フェンが血塗れの手套に覆われた指先で、同じく血塗れのレイピアを、ピン、ピン、と叩いていた。
「次に死にたい奴はだぁれ?」
 フェンの後ろにはシルヴェリアが背中合わせに立っており、恐怖で声も思考力も失った状態のウィーゼルを左腕に抱えていた。シルヴェリアの右手の指揮杖には、血と、それで頭を殴られた者の髪の毛がこびりついていた。
 妹を盾にラウプトラ邸を脱出せんとするシルヴェリアをフェンが手助けし、屋敷の外に連れ出すと、二人は迷わず第一師団宿営地への最短ルートを選んだ。それが、連合軍宿営地をまっすぐ突っ切るルートだった。
 彼女たちを取り囲む兵士たちは三人いた。突っ切ることもできそうだが、シルヴェリアは幼い子供を抱えている。背中を見せたくはなかった。フェンは血が点々と飛び散る顔に薄笑いを浮かべ、レイピアの切っ先を叩き続けながら、正面の一人にゆっくり歩み寄った。その兵は剣を落とした。剣が歩道に落ちる音が合図となり、彼らはてんでに逃げ出した。
「……さて、師団長」
 敵が完全にいなくなると、フェンは手套を脱ぎ捨てて、鞘にくくりつけた皮でレイピアを拭いた。
「道をあちらへ渡られましたら難民区画になります。そこまで行けば、私たちの師団の兵も深くまで入りこんでいると思われますが」
「私は先に戻る」シルヴェリアが言葉を継いだ。「シオネビュラ神官団の出動に備える必要がある。フェンや」
「はい」
「ヨリスの心配などいらぬと思うが、念のため探してやってくれんかの」
 フェンはにっこりした。
「喜んで」
 そして、シルヴェリアが去るのとは反対方向に、勘に任せて歩き始めた。
 やがて、新総督軍兵士と第一師団の兵士が散発的な戦闘を行う区画に入りこんだ。意外にも、強攻大隊の兵士ではなかった。リャン・ミルトの第三大隊だ。
「ねえ、ヨリス少佐を見なかった?」
 手の空いている兵士を捕まえて尋ねると、兵士は剣を収め、背筋を伸ばして答えた。
「はっ。五分ほど前、この道を右手へ直進して行かれました」
「ありがとう。ところで、あなたたちどうしてここで戦っているの?」
「ヨリス少佐が戦いを始めた直後、ミルト中佐は即座に私どもを率いて難民区画の端に急行されました。そして、戦いのさなかにヨリス少佐を暗殺しようとする南部ルナリア独立騎兵大隊の弩兵数人と交戦となりました」
「そう」フェンは微笑んだ。「暗殺しようとしていたのなら仕方がないわね」
 兵士に教えられた通りに道なりに進むと、剣を打ち合う音が曲がり角から聞こえてきた。フェンは再びレイピアを抜き、早足になった。
 角を曲がると、いきなりミズルカが足許に倒れこんできた。情けない声で叫んだので、バランスを崩して転んだだけだとわかった。彼にとどめを刺そうと剣を振りあげる兵士の、がら空きの胸にフェンがレイピアを刺した。少し遅れて、兵士の腹からヨリスのサーベルが生えてきた。二人は同時に剣を抜いた。兵士は尻餅をついたままのミズルカの隣に倒れ、フェンとヨリスは対面した。ヨリスは五、六人の兵士を皆殺しにしていた様子だった。ミズルカが頼りになるはずはないので、一人でやったのだろう。
「……アルドロス少佐。君からの助太刀を受ける()われはないぞ」
「あらやだ。あなたじゃなくてかわいいミズルカ君を助けてあげたのよ」
「かわいい?」
 ミズルカがうわずった声で聞き返しながら立ち上がった。それから思い出したように自分の剣を拾った。ヨリスは首を振った。
「勝手にしろ。借りにはしないぞ」
「いいわ、あなたに貸したつもりはないし。年下の男は射程範囲外なの」
「そんな話はしていない。それよりどうして私の場所がわかった?」
 二人は話しながら剣の血を拭いた。血を拭く布も血を吸いすぎており、結局刀身に薄く血を延ばしただけだった。早く戻って武器の手入れをしたいと、二人は同じことを思った。
「カンよ、カン。何となくいそうな方向に歩いていたら、第三大隊の兵士が教えてくれたの」
 ヨリスはそれを信じた。本当に勘でわかったのだろう、と思わせるところがフェンにはある。ヨリスは大概、余裕のある場合には勘の根拠を求めようとするが、フェンはそれをしない。大した武人だと思う。
 とにかく、三人は歩き始めた。ヨリスとフェンが横並びになり、後ろに怯えたミズルカが続く。
 ヨリスがいきなり右手のサーベルを振った。すると、今し方通り過ぎた辻から太矢が飛んできて、サーベルに当たり折れ飛んだ。フェンがステップを踏むような軽やかさで動き、あっという間に歩を詰めて辻にいた弩兵を殺した。戻ってきて尋ねた。
「見えてたの?」
「いいや?」
「じゃあどうしてわかったの」
「わからん」
 今度は、ミズルカには腰を抜かす暇は与えられなかった。
「さっきの兵士の所属は? やはり南部ルナリアか」
「見ていなかったわ。でも騎兵部隊の所属には違いないわね。南西領陸軍の服で、深緑のマントを着ていたから」
「どういう奴らなんだ」
「私もそれほど多くは知らないわ。指揮官が不人気だってこと以外はね。有名な噂よ。あそこの指揮官と副官が恋人同士で、風紀無視で好き勝手してるって」
「何ですか、それ!」ミズルカは思わず口を挟んだ。「指揮官と副官が恋人同士って何ですか! そんなのヨリス少佐と私が恋人同士なのと同じじゃないですか!」
「ちょっと待て」
 すると、道の先の陸橋を渡って自分の部下たちが向かって来るのをヨリスは見た。
「ギィ」その呼び声を、ユヴェンサは口の中で殺した。だが隣のアイオラには聞こえた。結局ユヴェンサはこう言った「ヨリス少佐! お怪我はございませんか!」
 すると、すかさずフェンがヨリスと腕を組み、肩に頭を乗せた。駆け寄ろうとしたユヴェンサが、表情を強張らせて立ち止まった。
「吊り橋効果ってご存知?」甘ったるい声を出すフェンのこめかみを、ヨリスは肩を動かして軽く打ったが、フェンは気にしなかった。「未知なる敵との戦い、想像を絶する危機の中でこそ、愛は育まれるものなの。そのとき最も近くにいた異性とね」
「アルドロス少佐――」
「油断大敵ってこと。ねえ、あなた、目を離してたでしょ。この男、もらっていい?」
 ユヴェンサは呆然としていたが、ヨリスが敢えて状況を見守ると、その表情をみるみる憤怒で塗り変えていった。そして、ヨリスが聞いたこともないような低い声を発した。
「……いいわけねぇだろう、この毒婦。ちょっとこっち来いや」
「落ち着いてください!」アイオラが慌ててユヴェンサの腕を掴んだ。アウィンとヴァンもそれに続いた。「どうか冷静に!」「チェルナー上級大尉! やめてください!」
 ヨリスはため息とともにフェンを引き剥がした。
「年下の男は射程範囲外じゃなかったのか」
 女の戦いというものだけは、ヨリスの手に負えぬものだった。
「悪趣味も大概にしておけ、アルドロス少佐。チェルナー上級大尉! ……ユヴェンサ!」
 そう呼びかけられて、三人の小隊長を振り払おうとしていたユヴェンサは、その動きを止めた。
「君も大概にしろ。君には俺とこの淫乱が」親指で、ぐいっとフェンを指さした。「そんな雰囲気だったように見えるのか!」
「ギィ――」
 ユヴェンサの全身から力が抜けるのを感じ、小隊長三人は手をゆるめた。するとユヴェンサは走り出し、ヨリスの首に両腕を回して抱きしめた。隣でフェンが呟く。
「決闘しましょうか、ヨリス少佐」
「自殺ならもっと穏便な方法を選ぶんだな」
 ぎこちなく恋人の両肩に触れ、離れるよう促すと、ユヴェンサは体を離したものの熱っぽい目を注ぐのはやめなかった。
「怪我はないのね。本当にないのね、ギィ、ギィ。本当に心配したわ。本当に怖かった。見ていられなかった。だけど見ていた。目をそらさなかったわ!」
「俺もだ。心配した」
「まあ、本当に? 私を?」
「当たり前だろう。しないわけがあるか」
 ユヴェンサの声が熱を帯びていく。
「恋人としての私を心配したの? ギィ? それとも部下としての私をですか? ヨリス少佐?」
「そういう質問はやめてくれ」ヨリスももはやユヴェンサしか見えておらず、「君は何故そうやって俺を困らせる」
「決まっているわ。あなたの困った顔を見たいの。ごめんなさい。少し意地悪がしたくて。からかっているだけよ。あなたのことが好きだから……」
 ユヴェンサがヨリスの左手を両手で握った。ヨリスの右手はサーベルを握りしめたままなのだ。
「ユヴェンサ……」
 ヨリスはその手を握り返す。
「マグダリス……」
 ユヴェンサは更に手に力をこめた。フェンが二人に背を向けた。一人で師団宿営地に帰っていく。
「もうやってらんない」
 アウィンが何とも言えない顔をしているアイオラの耳に囁いた。
「俺たちもそろそろ帰ろうぜ……」
「そうしたほうがいいかもね……」
 するとヴァンが、ユヴェンサとヨリスにも聞こえそうな大声で尋ねた。
「アウィンー! ねえ、アウィンってさあ、何で恋人いないの? 作らないの? あっ! もしかしてできない――あ痛っ!」
 殴った。
 ヨリスは恋人の手を離し、一呼吸置いた後、軍人の顔に戻った。ユヴェンサもつられて表情を引き締めた。
「チェルナー上級大尉。私は決闘の途中だ。先ほどの化生は前座にすぎない。本命の決闘相手を倒しにいく」
「はい、ヨリス少佐」
「小隊長三名に怪我はないか」
「はい。問題ございません」
「では君たちは独力で師団宿営地に戻れ」
「はっ」ユヴェンサは敬礼をした。「ご武運を、ヨリス少佐」
「ディン中尉!」
 ミズルカは飛び上がり、叫んだ。「はい!」
「いつまでも空気のように存在感を消していないで、チェルナー上級大尉らと共に帰れ」
「とんでもございません! お供させて頂きます!」
 忠誠心だけはある副官を、ヨリスは止めはしなかった。連合軍宿営地へ向かうヨリスとミズルカの背を見送って、ヴァンが殴られた頭をさすりながら呟いた。
「ヨリス少佐って、疲れないのかなあ」
「疲れるわよ、人間だもの」アイオラが答えた。「でも、全部終わってからね」
 しばらく歩くと、ヨリスとミズルカは南部ルナリア独立騎兵大隊の兵士の一団と出会った。
「マグダリス・ヨリス少佐殿だぞ!」初めに聞こえた声に尊敬がこめられてるのを感じ、戦おうと身構えたヨリスは内心驚いた。他の兵士たちが口々に、感激の声をあげる。「本当だ」「強攻大隊のヨリス少佐殿だ!」
 彼らは剣を抜いていなかった。ヨリスのもとに駆けてきて、七人いる全員が足許に跪いた。
「ヨリス少佐殿! 先ほどの戦い、見事でございました!」
 崇拝を湛えて見上げてくる全ての目に、困惑を隠した無表情で答えた。
「君たちは私の敵だ」
「とんでもございません! 我々を苦しめてきたあの化け物を退治してくださった方が、どうして敵になり得ましょうか!」
「先ほど、君たちの仲間に矢を射かけられたばかりなのだがな……君たちは自分の大隊と仲間を裏切るつもりか?」
「私は志願兵でございます。四年、南部ルナリア独立騎兵大隊に所属し、本年下士官への承認試験を受ける予定でございました。黎明現象によって試験は中止となりましたが、己の大隊への忠誠心は、士官や下士官のそれに劣らぬものとの自負がございます。つまり――」
「つまり?」
「我が大隊のために、あの女狐……レナ・スノーフレークを打ち倒してくださるあなた様に、案内を務めさせて頂きたく存じます」
 彼らの騎兵大隊の本部では、大隊長ギルモア中佐が青褪めて頭を抱えていた。レナ・スノーフレークのせいだ。あの副官の暴走のせいでとんでもないことになった。シオネビュラ市の施設、住居、設備の破壊によってどれほどの被害がでたか、確認する気さえ起きなかった。騒ぎのさなか、本部に留まり続けたのは勇敢だからではない。いっそ死にたかったからである。
「失礼いたします」
 誰かが戸を叩いた。護衛兵士の一人だった。
「ギルモア中佐殿、お客様がお見えです」
「誰だね」
「シオネビュラ神官団のニコシア・コールディー三位神官将殿でございます」
 ギルモアはのろのろ立ち上がった。気が重いどころではない。宿営費代わりに差し出す捕食者サーリは失われ、これほどの被害を出したのだから。
「大隊長殿、一つ、確認させていただきたいことがございます」
「何だね」
「この騒動による被害、まずどのように解決なさるおつもりですか?」
 そのような質問に答える必要はなく、また兵士一人の分際を越えた質問であった。本来ならば怒鳴りつけて部屋から叩き出すところだが、今のギルモアにそのようなエネルギーはなかった。兵士もどこか、それを見越して訊いている感じがする。ギルモアとしても、シオネビュラの神官将に会う時間を引き延ばせるなら、どんな雑談でも歓迎だ。
「まずは副官を追い出すよ」椅子から立ち、服のしわを伸ばした。「うん。次は男の副官がいい」
「いいえ、次はございません」
 見つけた糸くずをつまもうとしたギルモアは、その動作を止めた。
「どういうことだね?」
 その質問にはまず、複数人が廊下を踏み鳴らす荒い足音が答えた。兵士が憐れみたっぷりの目をくれた。
「我々はあなたの指示を仰がずして、シオネビュラ神官団に降伏したということですよ」ついぞ足音が部屋の戸の前で止まった。兵士は最後に付け加えた。「あなたの好きな、女ですよ。どうぞお楽しみください」
「裏切ったな!」
「何だと? 裏切ったのはおまえのほうだ! よくも大隊の仲間をたくさん死なせてくれたな!」
 戸が蹴破られた。そんなことをしなくても鍵は開いていたのだが、例え戸が開け放たれていても、闖入(ちんにゅう)者は景気付けに何か他の物を蹴っていただろう。
「我が名はニコシア!」
 後ろに補佐官を従えて、ニコシアは戸口で槍を中段に構えた。
「バレル・ギルモア中佐、貴下部隊がシオネビュラ市に与えた甚大なる被害と市民の安全への侵害を許しがたきものとし、シオネビュラ神官団三位神官将ニコシア・コールディーの名において決闘を申し込む!」
 ギルモアは光明を見た。ただの小娘だ。楽に勝てる。そう思われた。
「我が名はバレル!」ギルモアは机を回りこみ、ニコシアの正面に立った。「決闘、受けて立つ!」
 剣を抜いた。騎兵用サーベルだ。
 ニコシアから動いた。まっすぐ突き出される槍を、横から払い落とそうとした。
 その前に、ニコシアが立ち止まって槍を低く落とした。ギルモアの剣は空を切り、間合いの長いニコシアの槍の柄はギルモアの臑を叩いた。すぐに槍を上げ、思わず立ち止まったギルモアの側頭部を柄で殴る。
「甘いんだよ!」
 転んだギルモアの胸に、ニコシアが槍を突き刺した。
 ほどなくして、若い女の声が通りに響きわたった。
「我こそはシオネビュラ神官団三位神官将ニコシア・コールディーなりぃ!」
 レナは大隊本部の真横に位置するた民家にいた。
「南部ルナリア独立騎兵大隊バレル・ギルモア中佐、討ちとったりぃ!」
「どうしてしくじったのよ! 言ってごらんなさい!」
 レナはその家の食堂で、掌をテーブルに叩きつけた。大隊本部の兵士はあらぬほうを見て答えた。
「そのように言われましても、捕食者の戦闘能力については私どもの責任の及ばぬところでございまして」
 何かがおかしいとレナは感じていた。兵士のふてぶてしい態度もおかしいし、シオネビュラの神官があっさりここに乗りこんでギルモアを殺したのもおかしいし、そもそもサーリが人間一人に破れ去ったのもおかしい。
「化け物を一人で殺せる奴は化け物よ。そいつは化け物なの?」
「さあ……」
「その返事の仕方は何!」
 兵士は黙っている。首を斬ってやろうかと思ったが、思いとどまった。兵士の様子からして、どこか反撃してきそうに思われるところがあった。
 とにかく今は身の振り方を考えなければならなかった。決闘相手はサーリを倒した。まだ戦える体をしているのなら、自分を捜しているはずだ。
 レナは深々と溜め息をついた。
「……それで、例の化け物少佐はどこにいるの」
 玄関扉が開く音。媚びに媚びる男の声が、廊下を近付いてきた。
「どうぞどうぞこちらです……」
 固まるレナに、兵士が肩を竦めた。
「ここです」
 食堂の扉が開かれて、レナの大隊の兵士に取り巻かれたヨリスが姿を現した。血塗れだが、本人に怪我はないように見えた。
「……どうやって倒したの?」
 レナは取りあえず時間を稼ぐべく、話を振った。
「覚えてないな」
 話は終わった。
「君からの条件は満たしたぞ、レナ・スノーフレーク少尉」ヨリスはサーベルを抜き、まっすぐレナに突きつけた。「宣言通り決闘を受けてもらう」
「無理無理無理無理」
 レナはくるりと背を向けて、奥の戸へ走り出した。厨房を抜けて、洗濯場を抜けた。そのまま石造りの塀にこしらえられた裏門をくぐり抜け、運河があるほうへ逃げていくレナと、追うヨリスを兵士らは見送った。ミズルカはそのまま走ってヨリスを追いかけた。
 戦いらしい戦いが行われた気配はなく、やがて運河から、ぎゃっ、とレナの悲鳴が短く聞こえただけだった。川岸に彼女の姿を見つけたときには、ヨリスとミズルカは消えていた。
「この女、今まで散々好き勝手してくれやがって!」
 死んで横様に倒れているレナの腹を、兵士の一人が蹴った。
「ジュエルの仇だ!」
 別の兵士がレナの顔面を蹴る。
 が、続く者はなかった。彼らは虚しさに取り憑かれてしばし呆然とし、自分のしたことを恥じて赤面し、また虚しさに取り憑かれて呆然とした。
 一人がレナの両脇の下に手を入れ、小舟に運んでいった。別の兵士が足を持ち、手伝った。レナを小舟に投げこむと、もやい綱を切り、流れゆくに任せた。
 河口近くまで流されてから、小舟の上でレナが身じろぎした。ぼんやりと目を開け、瞬きし、それから急に自分に意識があることに気がついて、目に強い光を宿した。
 飛び起き、喉に触れた。一直線に喉を裂く傷が残っていた。塞がっているが、浅い傷ではなかったはずだ。全身を濡らす自分の血の量でわかる。
「どうして私が?」レナは鳥肌を立てたが、恐怖を感じるのと同等かそれ以上に、空腹を感じた。「どうして私が……」
 それから、手を染める自分の血を夢中で舐め始めた。
 飢餓感は癒えなかった。これでは駄目だとわかった。言語活性剤とそれがもたらす復活の効用について知識があったからではない。意識は朦朧とし、知能が退行したようにさえ感じられ、レナはいかなる知識も思い出せなかった。ただ本能で、生きている、もしくは死後間もない言語生命体の血肉が必要だとわかった。飢餓感は、恐怖を与えるほど強かった。レナは櫂を漕ぎ、小舟を岸壁に寄せた。
 少し歩いて、ここが港に隣接した受け入れ・出荷検査場だとわかった。
「おれのオスのヒヨコぉー!」白い天幕の向こうから、男の泣き叫ぶ声が聞こえた。「いい食肉になれよぉー! いつか食ってやるからなぁー!」
「ヒヨコ城主、今日もやってるよ」
 天幕のすぐ向こうで別の声が言った。
「あの人、よっぽど仕事が好きなんだな……」
「おれのメスのヒヨコぉー!」どうやら出荷の時刻らしい。「いい卵を生めよぉー!」
 ヒヨコ城主は号泣した。
 うるさい、と思った。レナは苛立ち、つまり、感情が戻りつつあることを自覚した。だが、もともと欠けた暖かい感情は戻りようもない。
 最初の餌はあのうるさい馬鹿男にしよう、と思った。人が苛立っている近くでうるさくした罰として。天幕に沿って歩き、声の発生源に近付いていく。
 レナの真っ黒い直感の網に、何か引っかかるものがあった。
 左方向を見た。
 ギゼルがいた。
 ギゼル・シラー大尉。
 侮辱を受けたことがある。受けたことだけは覚えている。その記憶をきっかけに、レナはかつて大隊に所属していた、四人の中隊長を思い出した。ギゼル・シラー。リン・チェルキー。アリストリル・イーリー。カルナデル・ロックハート。
 殺してやるわ。
 私を侮辱した奴。私が侮辱されるのを見ていた奴。
 ギゼルはようやくまとめた難民たちを、検査場があるこの地区まで避難させ終えたばかりだった。レナは何も知らずに近付いていく。何故彼がここにいるのか、そんな疑問は思いつきもしなかった。
 ポケットに手を突っこみ、俯き気味にあるいていたギゼルが顔を上げた。レナを見つけ、びくりと立ち止まる。自分が誰かわかったのだと、レナには伝わった。
「レナ――」
 目を見開き立ち尽くすギゼルに、レナは重い足を引きずり迫っていく。
「シラー……大尉……」
 血にまみれ、足を引きずっている姿は、いかにレナを嫌っていようとも、ギゼルの気質を刺激し、行動させるに充分だった。
 レナは歩き続ける。
 もう少し。もう少し。
「私……大尉……私……」
 ギゼルは口を開き、だが何も言わずに駆けてきて、レナの肩を支えた。
「おい」
「ねえ、聞いて……私……」
 レナは倒れかけ、ギゼルにもたれかかった。鼻先がギゼルの肩に触れた。
「お前、何があった?」
「私ね」
 両手を上げ、ギゼルの背に回す。
 彼の耳に囁いた。
「私、殺されちゃったよぉ……」
 直後、ギゼルの首に噛みついた。皮膚と血管を食い破る力は当然なかったが、ギゼルが驚いてレナを振りほどいたとき、彼の命運は尽きた。
 間合いが開いた瞬間、レナはサーベルを抜き、ギゼルの腹を刺した。
 夥しい血がレナの理性を吹き飛ばした。
「ギゼルー?」
 遠く、リンの声が響く。けれどレナには聞こえない。
「ギゼル、どこ行ったのさぁ」
 聞こえない声なのだから、近付いてきていることさえわからぬのは当然だった。
「ギゼル――」
 レナは血とはらわたに夢中だった。はじける命。美味なる恵み。生命力が、あるものをあるままに生かす力が、口を経て、体の隅々に、細胞の一つ一つ、破れた神経の網、切れ切れになった知性の糸、それらに行き渡り補修し補強していく。嬉しい! 嬉しい!
 誰かが餌から自分を遠ざけた。喜びから遠ざけた。
 なんで。どうして。レナは餌に手を伸ばす。どうしてアレから自分が引き離されているのかわからない。
「レナぁ!」
 リンが、レナの肩を剣で串刺しにしながら、怒声を浴びせかけた。仰向けに倒れたレナから剣を抜く。だがレナは、リンに見向きもしなかった。
「餌……」ギゼルに手を伸ばす。「餌ぁっ!」
 亡骸に這いずっていくレナの背に、リンがもう一度剣を刺し、抜いた。レナは亡骸にすがりつく。リンは更にレナに斬りつけ、肩を掴んで仰向けに引き倒し、また刺した。だがレナは動き続けた。
 何度急所を刺してもギゼルのもとに這っていく。亡骸を庇うように、レナとギゼルの間に立ちはだかっても、反応は変わらなかった。
 その傷口が不気味に盛り上がり、修復されていく。服から出る体の色は、灰色に変じていた。
「リン!」仲間の声が聞こえる。めった刺しにするリンの手を、誰かが後ろから掴んだ。「やめるんだ! リン!」
 ちょうど、剣は肋骨の間を通ってリンの右の肺を貫いていた。それを、駆けつけた青年も確かめた。
「トリル……」
 仲間の腕に、半ば抱くように支えられ、リンは剣を離した。意識しないうちに、腕も、足も、激しく震え始めた。
「ねえ、トリル――」トリルは、目の前の醜い肉塊が誰か、顔立ちや髪などの特徴から見抜いていた。体中に怪我を負い、肺を刺されて地面に釘付けにされ、なお蠢きもがいているその姿を前に、何も判断できずにいた。リンの声は、聞こえた。「トリル、こいつギゼルを殺したよ」
 トリルには何も理解できず、何も言えなかった。
「ああ……」
「殺して」
 リンが膝からくずおれそうになった。トリルは腕に力をこめた。
「あいつを殺してよ!」
 リンの震えが伝わってくる。
 と思ったら、自分の震えだった。
 強い拒絶がこみ上げてきた。二人は同じことを思っていた。嫌だ。こんなのはおかしい。間違っている。何かが狂っている。何かが……。
「あいつをちゃんと殺してっ!」
 その絶叫が合図となったように、レナの肉体が、砂となり崩壊した。

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