奇妙な噂

文字数 4,818文字

 ※

「ヨリス少佐」
 会議室を出たところで、糸目のリャン・ミルト中佐に呼び止められた。後から出てきた連隊の副官と参謀が、ヨリスを追い抜いて行った。
「何でしょう」
「先ほどの連隊長の話だが」
 二人の距離が十分に縮まると、ミルト中佐は声を落とした。
「――連隊長は言い方が悪かったが、実際かなり大きな問題だ。今日、第二師団内で憲兵隊が動いた。次は第一師団だろう」
「それが本当なら遅すぎます」
「憲兵隊は手が足りてないんだ。内部からの抵抗も少なからずある」
「あの師団長は内部からの抵抗を顧たりはしないでしょう。必ず強行します」
「ならいいのだが……ああ、そう。少し話は変わるが」
 ミルトは廊下の前後を見回して、他に誰もいないのを確かめた。
「あくまで噂に過ぎない話を君にするのは気が引けるが、一部の神官兵団は化生(けしょう)の軍隊を作ろうとしていると聞いた事がある。君は知っているか?」
「救世軍でございますね」
 ミルトは頷いた。
「こういう事だ。奴らは言語生命体の中にある言語子を活性化させる物質を意図的に取り込み、人為的に緩慢な言語崩壊を起こす。言語崩壊がもたらす人体への変異を有効に操作し、強化すると」顔をしかめる。「――その物質は普段体内で大人しくしているが、夥しい出血、臓器の破壊等の生命危機によって急激に活性化し、生命維持を試みる」
 ヨリスは無言のまま、目で先を促した。
「……まあ、私は神官ではないから専門的な事はわからん。だが東方領で言語生命体の生物種に起きた変異は余りに惨い。言語崩壊が緩慢であれば、化生へとなり果てるさ中、言語子を補おうとして同胞の血や肉を欲し共食いになる。そうして不気味に結合し、太陽から逃れて陸を西へ渡る内、化け物の姿で固着する。それが人間で起きると思うとぞっとするよ」
「連中ならば何を企んでいるとしても不思議ではありません。それにしても、自ら化け物になるなど――」
 と言いながら、ヨリスは不愉快な気分になった。荒唐無稽に聞こえるが、もしも化生を相手にするならば、その餌になる事を覚悟しろと言われている気がした。
 会議室の戸が開いた。二人は話をやめた。コーネルピン大佐が顔を覗かせて、ヨリスを呼んだ。
「話がある。来なさい」
 ヨリスはミルトに軽く頭を下げ、会議室に戻った。部屋は窓にカーテンが引かれたままで、中にはコーネルピン大佐と、自分しかいなかった。
「掛けたまえ」
 ヨリスは扉側の下座に、コーネルピン大佐は上座に掛けた。会議中と同じ位置だった。
「少し確認したい事があってね」
「何でございましょう」
「ある筋の人物が噂をしていたのだが――」
 言葉を切り、目を一旦伏せ、また上げる。
「君は昔、救世軍の前身である『真理の教団』の教徒だったと聞いたが、本当かね?」
 心臓がどくんと一つ高鳴った。ヨリスは無表情のまま、真っ黒い目で大佐を見つめ続けた。大佐はまた目を逸らした。
 ヨリスは静かに口を開いた。
「まことでございます」
「いつ頃だ? どういう経緯でそうなった?」
 大佐はせめて声に威厳をこめた。
「全て正確に話したまえ。入信のきっかけは何で、いつ、どこで連中と関わった?」
「どこで、という話からしますと、私の郷里である東方領東部の島嶼地方です。幼かった故、これ以上の事はわかりかねます。母は一人で父と私を養っていたようですが、ある日教団関係者が来て、母が入信しました。気が付けば私は夜の王国を巡る布教の旅へと連れ出されておりました」
 黄色の肌は東方領に多い特徴だった。
「それは君自身の記憶かね?」
「はい」
「教団には何年いた?」
「恐らく、三年ほど」
「何歳の時からだ?」
「定かではございませんが、逆算すると推定四歳からになります」
 大佐は深く嘆息した。
「四歳か。大事な人格形成期だ。その時期に入れられた思想を抜くのは難しい」
 ヨリスは自分の中に強い苛立ちと憎悪が湧き起こるのを感じた。誰かが自分の身元を洗い、悪意で噂を流したとすると、そんな事をする人間は第二師団のグラムト・チェルナーくらいしかいない。憎悪はまずチェルナー中将に向けられた。それから、噂に簡単に振り回される愚かな直属の上官に向けられた。更には、育てる能力もないくせに自分をこの世に産み落とし、人生を滅茶苦茶にした両親にも向けられた。
 そうした感情を直視し、把握した。負の感情を飼い馴らす術に、ヨリスは長けていた。
「先ほどの会議の内容に関連してお話をされているのでしたら、予め申し上げます。件の教団との関与は私の意図するものではなく、また孤児として保護された際に一切の関係が切れております。真理の教団、及び救世軍は、私にとって唾棄すべき存在であり、幼少期の懐かしい揺籃(ようらん)ではございません。連中のために私が内通を行うなど有り得ぬ事です」
「だが、誰もがそれを信じるとは限るまいね」
 大佐はいかにも無気力に言った。
「この事は、君が自分から憲兵隊に言う必要はない。私の方から伝えておくよ。もういいから、退室したまえ」
「連隊長、お言葉ですが――」
「今日はもうよしてくれ。この問題は私一人で考える」
 苛立ちはたちまち激しい怒りに変化して、内面で荒れ狂った。ヨリスは荒れるに任せた。顔には一切出なかった。立ち上がり、平静な声で言った。
「それでは、失礼いたします」
 頭を下げ、退室する。連隊指揮所を出た。
 コーネルピン大佐は一人きりになると、深い溜め息をついて頭を抱えた。
 ヨリスが怒ってくれればよかったのに。そうすれば彼を信じる気にもなれた。だからあんな酷い物言いをしたのに。
 何を言っても顔色一つ変えぬヨリスが怖かった。ただ、怖かった。もともと部下としても個人としても親しめる要素のない男だ。冷血な戦闘中毒者。戦時でなければとっくに檻つきの病院にぶちこんでいるのに。
 あの男には感情がない。生まれつき人間らしさを持たない欠陥人間だ。だから信用などできない。そう結論した。
 ヨリスは無表情で怒り、いらいらしたまま厩舎へと歩いた。一歩進むごとに怒りは鎮まっていき、思い出したくもない事を思い出させられたという後味の悪さだけが残った。
 副官のミズルカ・ディン中尉が、煌々と明かりの点る厩舎横の小屋で窓の外を見ていた。ヨリスを見るとぱっと顔を輝かせ、小屋を飛び出した。
「ヨリス少佐! お待ちしておりました。軍服だけではお寒くありませんか? 馬丁に温かい飲み物を出させる事もできますが。会議でお疲れでしたら、少しお休みになってから戻られますか?」
 このよく喋る副官は、指揮官の傍にいられるだけで嬉しくて仕方がないのだ。ヨリスが行く所にはカルガモのヒナのようにどこにでもついて来るし、着る物にしろ、食べる物にしろ、寝る準備にしろ、起きてからの身支度にしろ、とにかく世話を焼きたがる。
「疲れてはいない。すぐに大隊指揮所に戻る」
「では馬を連れて参ります」
 ミズルカはヨリスに防寒具を渡し、厩舎へ駆けていった。ヨリスは私物の真っ白いマフラーを首に巻き、軽歩兵部隊の真っ黒いマントを着た。春が始まって二か月経つが、山間の地方は風も冷たく、寒さが残っていた。それから、馬に跨って、大道路に出た。
 ミズルカはヨリスの少し後ろで馬を進めながら、その背中と、一つに編まれた長い黒髪を見つめた。昨日盗み聞きしたチェルナー中将の話が否応なく思い出され、胸が痛んた。どうして少佐があんなに酷い侮辱を受けなければならなかったのだろう? 血統を聞いて敵が逃げていくでもあるまいし、強く、気高く、決断力と固い意志を持ち、勇敢で、聡明である事以上に、指揮官に何が必要だと言うのだ? ……ミズルカはヨリスに心酔していた。愛していた。もちろん上官としてだが。
 ミズルカは地方官僚の三男だった。亡き祖父の蔵書の戦記物語を読んで育ち、強さや名誉というものに並みならぬ憧れを抱いた。父は息子を自分と同じ世界に進ませたがったが、ミズルカは田舎の小役人など御免だった。すったもんだの挙句に母方の祖父母から出資を受けて士官学校に入った。そのような形で家長の面子を潰した事を、ミズルカの父はまだ許していない。
 が、悲しい事に、ミズルカは一向強くならなかった。運動神経に自信がない代わりに、事務処理能力と、自分が戦闘に出たら二分以内に戦死する事に関して自信があった。
 真っ暗な道の先に、トレブレニカの灯が散りばめられて見えてきた。ヨリスはヨリスで彼の思いに沈んでいた。あの村の灯の向こうには、幽霊館が夜に隠れ聳えている。まさかこんな形で戻って来るとは思わなかった。人質の娘が閉じこめられていたあの館で、ヨリスの父は喉を掻き切り、母は屋上から飛び降りて自殺した。他に何十人という人が死んだ。
 マリア。母の名前だった。布教団のリーダーの愛人で、自分以外の全ての信者たちに毒や刃物を配った。地球人たちの神話における聖母の名を持つ事が、その女の唯一の誇りだった。気分屋で、機嫌がいい時には必ず、お前の名も地球の聖人にちなんで名付けたのだと息子に教えた。全ての罪を洗い流され、娼婦から聖女になった女。香の壺を携えた、死と復活の証人。機嫌が悪くなった時は必ず、「私は女の子が欲しかったのよ!」息子を殴った。「マグダレナと名付けるつもりだったのに! 男だとわかってたら産まなかったわ!」とんだ聖母様がいたものだ。
 道が下り坂になった。甜菜畑の入り口で、二人の村民と一人の兵士が深刻な様子で立ち話をしていた。ヨリスは馬を止めた。
「どうした」
「大隊長殿――」
 兵士が姿勢をただし、ヨリスは馬を下りた。
「森の様子がおかしいと、こちらのお二方が仰っております」
 一人は老人で、もう一人は若い娘だった。雰囲気からして親族同士に思われた。
「あの森が」
 老いた農夫は村の灯の向こうの、こんもりした山と麓の森を顎で指した。
「ぎゃあぎゃあ騒がしいもんで何かと思ったら、鳥たちが森に帰らんと飛び回っていよる」
「それで、森に何かいるんじゃないかと」
 娘が不安げな様子で後を続けた。
「今は多少鎮まっていますし、気のせいかも知れませんが……」
「いいえ。……貴重な情報に感謝します」
 ヨリスは丘を見つめた。天球儀の白い輝きを背景に、森の上を飛びかう鳥たちが黒く見えた。すっかり覚えこんだ地形図と、遠くに見える森とを頭の中で照らし合わせる。
 前から目をつけていた土地だ。
 あの森は深く、地形が複雑で、迷いやすい。敵が占有する盆地との間は懸河で遮断されている。
 だが、敵陣の山の中からなら、こちら側の森の奥の山に、見つからず橋を架ける事ができる。山の中でなら川はいくらか細いからだ。山には切り立った崖がいくつもある。渡るに容易ではない。だからこそ――。
 ヨリスはにんまりした。
「あそこにいるんでしょうか。連合軍の――」
 娘は縋りつくような目をした。シグレイと共に航海に出るを望んだために、民間人が殺されたり、町や村が焼き打ちにあった話はトレブレニカの村人たちにまで聞こえていた。
「今の段階で言える事はございません」と、ヨリス。「ですが、連中を一兵たりともあなた方に近付けない事はお約束します。ご安心ください」
 副官が耳もとで囁いた。
「ヨリス少佐、偵察を出しましょう」
 ヨリスは頷き、馬に乗る。ミズルカも後に続いた。村人たちから十分に離れてから、副官に隣に馬を並べさせた。
「何でしょうか、少佐」
「今日の教練の開始時刻は一時間延期する」
 もう、ヨリスの意識は完全に、連隊指揮所での不愉快な出来事から切り離されていた。
「大隊内の全ての士官と下士官を指揮所に集めろ。会議を開く」


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